「北のまほろば」と「安東氏」という謎    中村隆一郎(演劇時評)

津軽半島の西に十三湖という岩木川他数本の川が流れ込む汽水湖がある。昔、ここを拠点に北海道からオホーツク、沿海州にかけて交易で活躍した豪族「安東氏」がいたという。

だが、この「安東氏」、どこから現れたものか、また何故、忽然と消えたのか?

学生時代、国史専攻の友人が、研究テーマにすると言っていたので、覚えているが、この「安東氏」については、十三湊で繁栄した痕跡が途絶えたあとは、追いかけようもないと思って失念していた。

 

 

この間、TVをつけたら司馬遼太郎の「街道を行く」の新シリーズの中の「北のまほろば」(1994年1月取材旅行)をやっていた。

「街道を行く」は何年も前に全43巻を読んでいる。

この41巻目にあたる「北のまほろば」は、青森県を取り上げたもので、縄文時代の(本が書かれたのちに発見された三内丸山遺跡について番組は詳細を説明している)この辺りの人々の、主に狩猟採集で暮らす生活は豊かで、奈良朝の人々が大和を国の「まほろば」と呼んだものに匹敵する、いわば「北のまほろば」とも言うべき環境ではなかったかという話から始まって、この地方の歴史を下るのだが、TVをつけた時にはすでに中世に差し掛かっていた。

 

画面には、十三湊と蝦夷地、樺太沿海州が描かれた地図が出ている。

津軽半島の真ん中あたりに日本海に面した大きな汽水湖があって、それと海を隔てる細長い陸地に十三湊はある。

ここを本拠地に、オホーツク海を取り囲む、いわば環日本海とも言える地図の界域を交易の場にして活躍した有力豪族に安東氏がいた。番組では安東氏の盛衰を物語る。

 

ところが、この安東氏はある時から先、忽然と歴史の表舞台から消えてしまうのである。いつだったか、津波に襲われ、一夜にして滅んでしまったという噂を聞いたことがあったが、これはかなり後になって進んだ十三潟周辺の入念な発掘調査によって、根拠がないことがわかったらしい。と言うことまでは何故か覚えていた。

 

僕がこの安東氏について知ったのは、今から五十年以上前のことだった。

大学の同じ学科に井手有記という国史専攻の友人がいた。

入学したての頃、ある事情があっていち早く仲良くなった友人である。井手君は長崎県五島列島のある島で生まれ育った。多分中学生ぐらいの頃だろう高校教師をしていた母親が病死、それで両親とも失った彼は、兄弟三人、親戚を頼って九州の西から北海道の最北、紋別に移住するというまるで山田洋次の映画のような少年時代を経験していた。

隠れキリシタンの土地柄なのだろう、彼はカソリック教会が運営する学生寮で暮らしていた。

余談だが、面倒を見ていたのはカナダ人のエノー神父で、エノーさんは大学でフランス語を教えていて、僕らもその教室の学生だった。その後僕は就職した会社で秋田市から東京に転勤したが、しばらく経って、神父が東京の教会にも出入りしていると教えてくれる人がいたが、会えずじまいだった。

 

この井手君が、ある時、「津軽といえば安東だ。だが、この安東については、どこからやってきてどこへ消えたものか、さっぱりわかっていない。歴史の研究課題として、実に興味深い。」というのである。「北のまほろば」など影も形もないときである。おそらく自分でやってみようというつもりがあったのだろう。僕は津軽と言えば、この地を治めた十万石の津軽氏ぐらいしか思い浮かばなかったから、ほうそんなこともあるのかと、感心しているばかりだった。

 

井手君は、時代小説も好きだったようだ。ある時、自分が読んだばかりの「竜馬が行く」全五巻を持ってきて、「読んでみろよ、面白いぞ」と言っておいて行った。司馬遼太郎は、初めてだったが、読み出したらやめられない。三日間読み続け、終わってしまうのが惜しかった。余韻を味わっているうちに覚えた最後の一行はいまでも暗唱できる。

 

竜馬が京の宿で襲われ倒れた後、

「・・・この夜、京の天は雨気が満ち、星がない。しかし、時代は旋回している。若者はその歴史の扉をその手で押し、そして未来へ押しあけた。」というのである。

他にも何冊か持ってきてくれたが、この時まで、時代小説には、家で定期購読していた「オール読物」の中の短編をたまに読むだけで、あまり縁がなかったのだが、山本周五郎藤沢周平など何の抵抗もなく読み出したのもこの頃であった。

 

番組では、十三湊の後、話題は津軽藩がコメという南国の作物にこだわったために度々東北特有のケカチ(冷害)に襲われ困難を極めたことに変わった。安東氏の話題は変わったが、井手君の言っていたことを思い出したりして、その後安東氏はどうなったのか気になりだした。

 

「北のまほろば」では、安東氏の十三湊がどんなところだったかを次のように想像している。

 

十三湖の南は、砂浜である。七里長浜が、鰺ケ沢までつづく。帆船で航海する者の側からいえば、十三湖は湾口が小さく、なかがひろい。投錨地として魅力的だったはずである。またこの湊の支配者からみると、海をへだてて北海道や沿海州に近いという利点がある。近世以前の日本は、北方世界からみれば鉄器を産する国として印象づけられていた。もし彼の地に縫い針や刀剣などを運び、彼の地から海獣の毛皮や鷹の羽などを入れれば、利があるはずである。さらには中国の陶磁器などを輸入すれば、日本の中央に──贅沢品ながら──大いによろこばれる。

 

つまりは、北方での海上王国を築くことができるのではないか。げんに、往古、十三湊にはそういう勢力が存在していたらしい。ただし文献が乏しい。

わずかに鎌倉末期ごろのことか、この湊について、「夷船京船群集し」(『十三往来』)と、表現したり、また室町時代の文明年間(一四六九~八七)のものかと思われる『廻船式目』に、津軽の十三湊が、「三津七湊」の一つである、とする文献がある程度である。

 

日本史は他のアジア諸地域にくらべ記録が多い。しかし十三湊は、記録の上では、ほとんど沈黙してきた。名としては、平安末期にあらわれる。栄えたのは、十四世紀から十五世紀が中心で、室町末期に衰退したらしい。この海港を栄えさせた勢力の名は、安藤(安東)氏ということは、たしかなようである。安藤氏がたしかに存在したことは、間接的な文献によってわかっている。やがてこの豪族は内訌によって衰え、室町末期に成長してきた南部氏にほろぼされる。同時に、十三湊の繁栄も、おわる。繁栄がおわったというのは、継承すべき新興の南部氏が海事にうとかったという側面も、想像できそうである。」(「北のまほろば」「十三湖」)

 

つまり、「北のまほろば」によれば、安東氏についてはほとんど資料がなく、室町時代の終わりごろ内訌(つまり一族の内輪揉め)によって衰えたところを南部氏によって滅ぼされたということだった。

 

僕は、十三湖には、もう何十年も前になるが、特段の目的もなく車で行ったことがある。

細長い砂の道に、風よけなのか幅の狭い背丈ほどの板を並べた塀が続いており、その風雨にさらされて白骨のように痩せ細った板の間から、向こうの砂丘が透けて見えるのが、心細く最果ての地に来たという気にさせたものだった。

民謡「十三の砂山」は「十三の砂山 米ならよかろな 西の弁財衆には ただ 積ましょ」と歌っている。米などとれるところではないと嘆いているのだろう。

むろん、その砂の下にかつての繁栄の遺構が埋まっていることなど気づきもしなかった。

 

安東氏が室町末期に消滅したあとのことを「北のまほろば」では、

 

「それにしても、安藤氏の滅亡後、十三湖をすてた当時の海運従事者たちは、どこへ行ったのだろう。出羽の庄内か越前の敦賀にでも移ったのだろうか。」

と想像している。

むろん消滅したと言ってる以上安東氏についての記述はそこまでで、話題は変わってしまった。

 

安東氏の一族が移転したのは、「出羽の庄内か越前の敦賀」というのに何か根拠があったのだろうか?

 

司馬遼太郎が「北のまほろば」の取材旅行をしたのは1994年12月のことであった。あるいは、そこが日本海を往来する北前船の寄港地という関連を想像しただけのことだったかもしれない。

このことは、まだ、日本史の体系が個別地方の歴史を組み込んで編纂するには早すぎたと見えて(司馬遼太郎の耳に到達していなかったことがそれを物語る。)実は、このとき日本史としては、庄内でも敦賀でもなく、出羽の秋田に安東氏の裔が現れることを認知していなかったのであった。

 

 

その前に、そもそも安東氏はいつを起源として、何故十三湊を拠点としたのか? その出自は何処にあったのか?

それには、大和朝廷畿内を中心に国を統一しようとしていた時代における東北地方の様相を知る必要がある。

 

「北のまほろば」で司馬遼太郎は、東北地方、つまり「陸の奥」について次のように記述している。

 

「七世紀の大化改新で、それまで諸豪族の私有だった土地・人民が、国家のものになり、公地・公民になった。同時に全国にはじめて国郡の制が設けられた。  大和政権にとってほんのそばの大阪湾にうかぶ小さな淡路島が「淡路国」という一国とされる一方で、不均衡にも、いまの福島・宮城・岩手・青森という四県が、広大な山河をもちながら、わずか一国の名でよばれるようになった。陸奥の語感の重々しさはその広大さにも由来している。」(「北のまほろば」)

 

律令国家が出来上がる頃、瀬戸内に浮かぶ淡路島は一国と見なされたが、それに比して福島から先の「道の奥」と呼ばれた広い東北の地域は実態もよく分からないままに一国とされたのである。そこは蝦夷と呼ばれるまつろわない民やアイヌ、その他の民族もいたに違いない。要するに、存在は確かだが誰もそれを詳細に報告するものはいなかったのだ。

 

以下は、僕が調べたことで、「北のまほろば」が縄文時代の北東北なら、この地域のそれに続く歴史の開明期である。

おそらく最初の記録が現れる「日本書紀」によると、景行天皇の時、その在位中に北陸・東北地方に武内宿禰(たけうちのすくね)を派遣して、その土地の地形や地質、あるいはそこに住んでいる人びとの風俗や気質について、視察・調査させたとある。

景行天皇とは、大和武尊(ヤマトタケル)の父親とされる人物だから、神話の中にいる。

実在したなら考古学上、四世紀(300年代)である。この天皇は九州地方にいた熊襲・土蜘蛛といった抵抗勢力を征伐したというから武人であっただろう。

武内宿禰の報告は、「東北の辺境に日高見(ヒタカミ)国がある。その国の人びとは、男も女も髪を結い上げ、身体に入れ墨をし、人となりは勇敢である。すべて蝦夷(エミシ)という。土地(仙台平野と北上盆地)は肥大にして広大である。討伐してこれを取るべし」というものであった。

 

この時代区分で言うなら古墳時代にあったという日高見国については、存在したとすれば、少なくとも数百年の間、広大な地域で比較的豊かな暮らしをしている異質の人々がいたということになる。これは陸路をたどって得た見解であろう。

 

一方、日本海は、海が穏やかで、自然の良港も多く海路はおそらく先史時代から開けていたに違いない。

日本書紀」には、武内宿禰から約三百年後の斉明天皇(七世紀、女帝、蘇我氏全盛の時)の時代に、越国(こしのくに:いまの福井県敦賀市から山形県庄内地方の一部に相当する地域を領した)の阿倍比羅夫(あべのひらぶ)が日本海を北上し、東北遠征を行なったとの記述がある。

 「斉明天皇四年(658年)四月、越国守阿倍比羅夫が軍船百八十艘を率いてエミシを討つ。顎田(アギタ)・淳代(ヌシロ)二地方のエミシは、その船団を遠くから眺めただけで降伏してきた。そこで軍船を整え、顎田浦(アギタノウラに入港し、上陸した」。

この顎田・淳代は、おそらく土着の名で、のちに発音しやすくあぎたはあきた=秋田に、ぬしろはのしろ=野代に変えたものであろう。(野代はのちに、津波に襲われ、土地が野に変わったため、能く代わることを願って、表記を変えた)

この二つの土地はのちのち安東氏の謎と交錯することになるが、いまはまだ古代の歴史の中にある。

エミシは本来、争いごとは徹底した話し合いによって解決するという習慣をもった平和的な民であったから、首長のオガは、比羅夫の前で、誓って言った。

 「自分たちの弓矢は、食糧にするための動物を獲るためのものである。もし、その弓矢を用いて、あなた方に立ち向かったならば、アギタノウラの神(古四王神社に祭る海洋神で、古四王は古志王、高志王、越王に通じる)がおとがめになるでしょう。その清い心の誓いをもって、あなたのお仕えしている朝廷にわたくしどももお仕えしましょう」と。

 阿倍比羅夫は、オガの申し出を聞き入れた。そうして、彼に小乙上という官位を与え、ヌシロとツガルの二地方の郡領(こおりのみゃっこ)に任命した。

日本書紀には、その年の秋七月に、エミシ二百人あまりが朝廷に出向いて貢物をささげ、朝廷はエミシに位階と、旗・鼓・弓矢・鎧などを与えたと記されている。

その後、阿倍比羅夫は更に北上し、津軽半島から北海道の渡島半島にまで到達し、各地のエミシとの親睦をはかった。

 

ところで、「古四王(古志王)」神社は、新潟付近とその以北に数十社ある。古志とは、中国東北から黒龍江流域沿海州に住んでいたツングース族のことであり、古代、この民族が海を渡って、日本に移り住んでいたという。その者たちが築いていた古志国が飛鳥時代(七世紀初め)の国名にあり、越(こし)または高志ともいい、大化の改新時、名称は越国(こしのくに)に統一されたとある。

この越国のルーツとなった古志(ツングース族)の日本への移住者のことを粛慎(ミシハセ)と呼ぶが、日本書紀によると欽明天皇544年12月、佐渡島に渡来するミシハセ人のことが越から朝廷に報告されている。

 

阿倍比羅夫が水軍を率いて日本海を北上したとき、その沿岸の土地にはエミシだけではなく、朝廷の眼の届かない日本列島の北方から日本に自由に出入りしていたミシハセがいたのである。

660年に阿倍比羅夫はまた、軍船二百艘を率いて北上し、北海道の南部にいたエミシたちの通報を得て、北の海に出没していた敵対的なミシハセを討伐したと日本書紀に記されている。

しかし、古代日本には多くのミシハセ人がすでに移住していて、彼らによって持ち込まれたユーラシア大陸産の馬の繁殖(南部馬)や、採鉱、採金技術(749年、陸奥国小田郡からの金の産出や、陸奥一帯の多くの金山の発見など)が広まることになるから、その文化は東日本にしっかりと根付いていたといえる。

その後、ミシハセの子孫である靺鞨(マツカツ)族が台頭し、朝鮮半島高句麗に進入する。北海道または日本の北陸・東北地方に移住した者はミシハセと呼ばれるが、高句麗に移住した者がはマツカツと呼ばれた。

 

「北のまほろば」の中に、面白い記述がある。

「ある日、津軽人の子の今東光さんをつかまえて、珍説をのべたことがある。奥州における金・今姓の由来についてである。  

ひょっとすると、遠いむかし、沿海州吉林省遼寧省などにいた騎乗の狩猟民族が、自民族のことを、誇らかに黄金とよんでいたことと無縁ではないのではないか、ということである。  

東光さんはしばらく我慢して聞いてくれていたが、やがて、 『エーエ、あたしゃ、どうせ靺鞨女真の徒でござんすよ』と、絶妙なまで話の腰を折ってしまった。“靺鞨女真の徒”というのは漢文の世界での一種のフレーズで、野蛮で未開の連中というひびきがある。」

 

この靺鞨のことである。

663年、白村江の戦いで唐朝と新羅の連合軍が、日本と百済の連合軍を破り、朝鮮半島が統一されると、高句麗に在住していたマツカツ人の多くが、中国東北に逃亡し、渤海(ぼっかい)国を建国した。

 渤海国は727年、日本との通商条約を締結し、その後、約二百年の正式外交関係を維持した。この間、マツカツ人が日本を訪れ、大勢が日本に帰化したという。古代の東日本にはツングース族の同胞=粛慎(ミシハセ)がすでに移り住んでいたから、親しみと安心感を抱いたのであろう。

 このように、古代の東日本では、青森三内丸山に見られる縄文文化一万年の縄文人をルーツとするエミシと、日本列島の北から入ってきた大陸の人びと、すなわち北アジアツングース族をルーツとする者とが共存していた。

その結果、大陸から伝えられた狩猟と農耕と遊牧と金属の文化と、日本列島独自の森や海と共生してきた縄文文化が融合したところに文明国、日高見があった。この東の都は、大陸の稲作文化をもつ大和朝廷とは全く異なるものであった。

前にも述べたが、この日高見国の名は日本書紀景行天皇(四世紀)の時代にすでに記されている。そののち平安時代初期802年に、日高見国の最後の砦となった胆沢で、エミシ軍の指導者アテルイとモレが部下五百人を率いて、朝廷軍の坂上田村麻呂に降伏した(『日本紀略』)とあって、この国は少なくとも五百年の間続いたことになる。このとき、日高見国が独立宣言でもして抵抗運動を繰り広げてでもいたら、東北地方は、英国におけるスコットランドになっていただろう。ただし、こののちも、朝廷に対する抵抗は散発的に行われ、約二百年後にあった抵抗の戦が産み落としたものとして安東氏が登場するのである。

 

(続く)

 

 

弘前市の北にへばりつくように藤崎町がある。人口一万五千ほどの小さな町である。

僕は弘前に五年住んだが、藤崎といえば、りんご畑が拡がる農村風景しか見たことがなかった。ただ、弘前に飲み込まれそうな位置と規模なのにどこか誇り高く、独立自尊の気概が感じられた。津軽と言えばまず藤崎をのぞいては語れないと主張しているようにその名を見るたびに思った。

それが、安東氏について調べているうちに、11世紀ごろのここが起源だったことを知ったのだが、この町の歴史は、それより古く、津軽の中でも「歴史は深い」(町のホームページ)からだとわかって、得心した。

安東氏のルーツがこの藤崎にあるというのは、ここに長い間城柵があり、弘前にその地位が移る前までこの地方の中心だったと言う史実に根拠がある。

 

前九年の役」(1051年~1062年)と言えば、日本史の教科書には必ず登場するエポックだが、安東氏が歴史に登場するのはこの頃のことである。まずは、その概略を確認しておこう。

 

それより二百年ほど前の平安時代初期(802年)に、日高見国が朝廷軍の坂上田村麻呂に降伏したあと、陸奥国の各地にいた豪族の多くは大和朝廷に従った。降伏した蝦夷を俘囚といったが、このなかに北上盆地から今の盛岡辺りまでの広域を支配する安倍氏がいた。

 

この安倍氏が、頼良の時、11世紀の半ばになると、朝廷への貢租を怠る状態になり、さらには陸奥国府の管轄地域である衣川以南に進出したため、永承6年(1051年)、陸奥国司藤原登任が数千の兵で安倍氏の懲罰に向かい、玉造郡鬼切部(おにきりべ)で戦闘が勃発した。玉造郡鬼切部とは、宮城県北部にある山深いところだが、それより二百年前、坂上田村麻呂が大武丸という蝦夷を討った際にその首が飛んだ場所と言う伝説があり、別にアイヌ語では「小さな川が集まって大きな川になる所」を意味する「オニカペツ」が語源と言われている。この鬼切部の戦いでは、すでに「あぎた=秋田」におかれていた地方管轄官である「秋田城介」の平繁成も国司軍に加勢したが、安倍氏が勝利し、敗れた登任は更迭、河内源氏源頼義が後任の陸奥守となった。

 

翌年永承7年(1052年)、後冷泉天皇祖母、(藤原道長息女、中宮藤原彰子)の病気快癒祈願のために大赦を行い、安倍氏も朝廷に逆らった罪を赦されることになった。安倍頼良陸奥に赴いた頼義を饗応し、頼義と同音であることを遠慮して自ら名を頼時と改めた。天喜元年(1053年)に頼義は鎮守府将軍となった以後、その陸奥守在任中は平穏に過ぎた。

 

その任期満了である天喜4年(1056年)、頼時から惜別の饗応を受けた頼義が胆沢城(鎮守府)から多賀城国府)へ戻る途中、阿久利川で野営を敷いてた。その時、何者かによって頼義配下の陣が荒らされる騒ぎが起こった(阿久利川事件)。

 

これは真相は定かではないが、頼義配下の在庁官人である藤原光貞と元貞が野営していたところ、夜討ちにあって人馬に損害が出た、と頼義に報告があったことに端を発する。

さらに光貞は「以前に安倍貞任(頼時の嫡子)が自分の妹と結婚したいと申し出て来たが、自分は安倍氏のような賤しい一族には妹はやれないと断った。だから今回のことは貞任の仕返しに違いない。」と頼義に答えた。そこで怒った頼義は貞任に出頭を命じたが、頼時は息子(二男)貞任の出頭を拒否し、その結果、安倍氏と朝廷の戦いが再開されることとなった。

 

また、頼時の女婿ながら国府に属していた平永衡が陣中できらびやかな銀の兜を着けているのは敵軍への通牒であるとの讒言をうけ、これを信じた頼義は永衡を殺害した。永衡と同様の立場であった藤原経清は累が自分に及ぶと考え、偽情報を流して頼義軍が多賀城に向かう間に安倍軍に帰属した。

 

天喜5年(1057年)5月、頼義は一進一退の戦況打開のために、安倍氏挟撃策を講じ、配下の気仙郡司、金為時を使者として、安倍富忠ら津軽の俘囚を味方に引き入れることに成功した。

これに慌てた頼時は、7月に富忠らを思いとどまらせようと自ら津軽に向かうが、富忠の伏兵に攻撃を受け、深手を負って本営の衣川を目前に鳥海柵(胆沢郡金ケ崎町)において死去した。頼時の跡を継いだのは貞任であった。

 

頼義は同年11月、再び陸奥国府(現在の宮城県多賀城市)から出撃したが、この時の頼義の兵力は最大に見積もっても国衙の兵2,000名程度と、傘下の武士500名ほどであったと推測されている。

安倍貞任軍は河崎柵(現在の一関市川崎村域)に4,000名ほどの兵力を集め、黄海(きのみ、現在の一関市藤沢町黄海)で国府軍と激突した。冬期の遠征で疲弊し、補給物資も乏しかった上に兵力でも劣っていた国府軍に安倍軍は大勝。国府軍は佐伯経範、藤原景季らが戦死し、頼義自身は長男の義家を含む七騎でからくも戦線を離脱した。

 

その後、頼義が自軍の勢力回復を待つ間、康平2年(1059年)ごろには安倍氏は衣川の南に勢力を伸ばし、朝廷の赤札の徴税符ではなく藤原経清の白札で税金を徴するほどになりその勢いは衰えなかった。

苦戦を強いられていた頼義は中立を保っていた出羽国仙北(秋田県大曲・横手盆地周辺)の俘囚の豪族清原氏の当主、清原光頼に「珍奇の贈物」を続け参戦を依頼したとも、朝廷の命令を楯に参陣することを強く要請したともいわれる。いずれにせよ、これを聞き入れた光頼が7月に弟武則を総大将として軍勢を派遣することになった。

この軍勢は、武則の子荒川太郎武貞、その甥、男鹿の豪族志万太郎橘貞頼、山本郡荒川(現大仙市協和)の豪族荒川太郎吉彦秀武率いる軍、など秋田勢を中心とした朝廷側が源頼義勢3,000と合わせて10,000と推定される。清原氏の参戦によって形勢は一気に朝廷側有利となった。緒戦の小松柵の戦いから朝廷軍は優勢であった。

 

1062年9月17日に安倍氏の拠点である厨川柵(岩手県盛岡市天昌寺町)、嫗戸柵(盛岡市安倍館町)が陥落(厨川の戦い)。貞任は深手で捕らえられ巨体を楯に乗せられ頼義の面前に引き出されたが、頼義を一瞥しただけで息を引き取った。その首は丸太に鉄釘で打ち付けられ晒された。藤原経清は苦痛を長引かせるため錆び刀で鋸引きで斬首とされた。

 

こうして安倍氏は滅亡し、約十二年にわたる「前九年」の長い戦役は終った。

清原氏参戦後、わずか一ヶ月で安倍氏が滅亡した点については、ある時点で安倍氏清原氏の間に密約が成立し、早期の終戦が合意されていたのではないかとの見方もある。

この密約とは、敵将藤原経清の嫡男、清衡が、本来は処刑される運命にあったが、この時まだ七歳であり、これを助命するというものである。清衡の母親(貞任の妹)が、安倍氏を滅ぼした敵将である清原武則の長男清原武貞に再嫁する(密約の正体?)ことになり、連れ子の清衡も清原武貞の養子になることで、難を逃れた。

この清衡がやがて奥州藤原氏へとつながっていくことになる。

 

ところで、藤崎町のホームページには、「安東氏発祥の地」として次のように述べられている。

「戦死した安倍氏の頭領・安倍貞任の遺児の高星丸が藤崎に落ち延び、成人の後に安東氏をおこし、藤崎城を築いて本拠地とし、大いに栄えたと伝えられています。」

この根拠になっているのは、江戸時代に出版された塙保己一の「続群書類従」で、系図奥書に永承三年(1506年)の日付が見え、これが藤崎安藤に関する最も古い記録と推定されているらしい。この藤崎系図(安倍姓)では、

長髄彦の兄安日の末葉(子孫)安倍貞任の子高星(たかあき)が藤崎安藤の祖となったとされている。高星は貞任敗死後、三歳の時乳母に抱かれて、藤崎に逃れ、藤崎城主になり、その子堯恒は、安藤太郎、のち藤崎太郎と称した、と伝えている。」(弘前大学学術情報リポジトリ「東水軍史序考」佐藤和夫

長髄彦」は神話の中の人であり、高星の存在も確たるものではないとする説もあるようだが、藤崎町では町の歴史としてこの安倍貞任の系譜を掲げている。

 

もうひとつ「続群書類従」第七輯上には、成立年度は不明だが、貞任の子孫が安藤氏となったと言う記述もある。(安藤系図

「貞任敗死後、四歳の貞任末子(則任)を家人が山中に隠した。藤原清衡の子惟平に男子がなく、祖母(貞任妹)の縁により、七・八歳の時に則任を養子にした。すなわち白鳥太郎則任で、その孫季任の時成人後、本姓安倍氏と養父姓藤原氏と合わせて安藤としたという。安藤氏祖で、安藤太郎と称した。」

 

ここまでの記述で僕は、これは変な話だという印象を持った。

安倍貞任の子、則任(四歳)を山中に隠したというのは高星の話しに共通するところがあってありうることだと思う。が、このとき同時期に助命されたという藤原清衡は七・八歳ということだった。つまり、則任(四歳)が匿われた時、清衡は同じ世代である。ところが、「清衡の子惟平に男子がな」かったので、七・八歳の則任を養子にしたというのは年齢が合わないのである。

「祖母の縁」とあるのは、清衡の母親が貞任の妹だから惟平から見れば祖母にあたる。祖母の兄の子を養子にしたという関係になるが、自分の父親ほどの世代の男、しかも主筋のものを養子にしたというのは本当だろうか?

もっとも、則任は貞任の子ではなく、弟(清衡の母親の兄弟で、清衡の叔父)だという説もあり、このあたりはどうも国史学上混乱しているように見えるが、これを指摘するものに出会ったことはない。

もうひとつの疑問は、則任の孫である季任が成人後、安藤太郎になったのと、藤崎で高星の子、堯恒が安藤太郎になったのでは一世代分の時代が違うが、では歴史上「安藤太郎」の出現はいつか、ということである。

 

続群書類従」の記述は続く。

「その子小太郎季俊(則任の孫、季任の子)は文治五年(1189年)奥州合戦(平泉藤原氏源頼朝の戦い)の時、頼朝の幕下に属し、その子安藤季信は津軽守護に任ぜられた。その孫、又太郎季長は嘉暦(1326年~29年)の頃、安藤の乱・津軽大乱の中心人物となり、幕府の討伐軍によって誅滅させられている。その後子孫は秋田に移住し、秋田安藤次郎李道は、はじめ宮方に属し、のち足利尊氏に属した、と言うところで終わっている。」(「弘前大学学術情報リポジトリ」同上)

 

この記述では、「前九年の役」から奥州合戦までいきなり百年ほど飛んでしまって、「安藤氏」成立のプロセスが、必ずしも明瞭ではない。しかも、高星が藤崎城に現れ、その子が安藤を名乗る時と大巾にずれている。

これでは何が本当か訳が分からん。

 

 

僕は、安東氏が十三湊に現れ、一時期繁栄した、と言う「北のまほろば」と井手君の思い出から、そのいきさつを確かめようとして、この作業を始めた。しかし、もともと国史学上の真実を文献から読み解こうなどという気はさらさらない。専門家が、これまで、文献の少ない中を悪戦苦闘して調べ上げたのと同じ次元でこれを論じることはそもそも素人である僕に出来る技ではない。

 

安東(安藤)氏の足跡がはじめて11世紀後半の藤崎に見いだされることが分かって、そこから十三湖に至り、鎌倉時代末期にかけて繁栄した後、その末裔が出羽の秋田に出現することが分かったので、そのあらましを確かめればそれで満足だと言うことである。

とりわけ今度は、生まれ故郷にその縁があったことに、はじめて気が付いて、いささかショックだった。

故郷の弟に「桧山は、安東氏と関係があったらしいが知ってるか?」と聞いたら、「安東氏について調べると早死にするという都市伝説がある。」という答えだった。僕が子供の頃は、安東の「あ」の字も聞いたことはなかったのに、いまでは調べてみようと思ったものにとっても謎が多いということなのだろう。(もっとも安東の話題が出なかったのは、本来はよそ者である僕の周辺だけだったのかもしれない。)

 

ここまで、安倍貞任の子孫が安東氏成立に関わっていることは確からしいことは分かった。それには、「前九年の役」の中の安倍貞任を中心としてその全体像を理解する必要があった。そこから藤崎安東氏に至る道筋はことが単純だけに理解はできるが、安倍貞任の子、高星が何故「安東」姓を名乗ったのか、納得できる説明はないと僕には見える。

そこにいくと、「清原清衡の息子の養子になった、貞任の子、(白鳥太郎)則任、その孫季任の時成人後、本姓安倍氏と養父姓藤原氏と合わせて安藤とした」という「続群書類従」の記述は、安藤氏の起源として説得力があると僕には思える。

 

では、その白鳥太郎則任は、どこへ行って、またその孫の季任はどこで安藤と名乗ることになり、その子孫が平安末期または鎌倉初期には十三湊にいたったのか?

それを確かめるには、清原氏の中に分け入って則任の行方を捜す他ないのではないか。「前九年の役」で勝者になった清原氏の動静となれば、まさに、「前九年」から約二十年経った「後三年の役」(1083年~)というもうひとつのエポックのことになる。

この頃になると、清衡は三十歳前後。養父清原武貞には、嫡子真衡(清衡異母兄)と、弟の家衡(母親が武貞との間に産んだ異父弟)がいる。

 

後三年の役」のあらましとは?

清原武貞亡き後、惣領となったのは真衡だが、嫡子がいなかったため、桓武平氏の血をひく成衡を養子に迎える。この成衡の嫁に源頼義の娘と称するものを娶らせることで、源氏と平氏の血筋を一挙に入れ、異母弟の家衡を清原氏嫡流から外す所業に及んだ。こうして内紛の火種はできあがっていた。

 

事の起こりは実に単純であった。成衡の婚礼のとき、出羽から真衡の叔父で清原一族の重鎮、吉彦秀武陸奥の真衡の館まで祝いに訪れた。秀武は朱塗りの盆に砂金を盛って頭上に捧げ、真衡の前にやってきたが、真衡は碁に夢中になって応対しなかった。面目を潰されたと秀武は大いに怒り、砂金を庭にぶちまけて出羽に帰ってしまった。

これに怒った真衡は、直ちに秀武討伐の軍を起こしたが、一方の秀武は、同じく真衡と不仲であった家衡と清衡に密使を送って蜂起を促した。二人は秀武に呼応して兵を進め、<白鳥村>を焼き払った後に真衡の館に迫った。

これを知った真衡が軍を返して家衡と清衡を討とうとした為、二人は決戦を避けて本拠地へ後退した。家衡と清衡を戦わずして退けた真衡は、再び秀武を討とうと出撃の準備を始めた。

 

永保3年(1083年)の秋、成衡の妻の兄である源頼義の嫡男、源義家陸奥守を拝命して陸奥国に入ったため、真衡は義家を三日間に渡って多賀城国府)で歓待し、その後に出羽に出撃した。

家衡と清衡は真衡の不在を好機と見て再び真衡の本拠地を攻撃したが、すでに備えをしていた真衡方が奮戦した上、国府も真衡側に加勢したため、清衡・家衡は大敗を喫して国府に降伏した。

ところが出羽に向かっていた真衡は行軍の途中で病のために急死してしまうのである。

真衡の死後、義家は真衡の所領であった奥六郡を三郡ずつ清衡と家衡に分与した。清衡に和賀郡、江刺郡、胆沢郡、家衡に岩手郡紫波郡稗貫郡が与えられたのではないかとされるが確証は無い、らしい。

ところが今度は清衡と家衡が対立し、応徳3年(1086年)に家衡は清衡の館を攻撃した。清衡の妻子一族はすべて殺されるが、清衡自身は生き延び、義家の助力を得て家衡に対抗する。

義家は自らの裁定による奥六郡の秩序を破壊した家衡に激怒し、清衡を支援する。9月に朝廷は義家の次弟義綱の陸奥国への派遣を協議したが、事情聴取は行われたものの義綱の派遣は実現しなかった。

清衡と義家は沼柵(秋田県横手市雄物川町沼館)に籠もった家衡を攻撃したが、季節は冬であり、充分な攻城戦の用意が無かった清衡・義家連合軍は敗れた。

 

武貞の弟である清原武衡は家衡勝利の報を聞いて家衡のもとに駆けつけ、家衡が義家に勝ったのは武門の誉れとして喜び、難攻不落といわれる金沢柵(横手市金沢中野)に移ることを勧めた。

寛治元年(1087年)7月、朝廷では「奥州合戦停止」の官使の派遣が決定。8月には義家の三弟義光が無断で義家のもとに下向し、9月に朝廷は義光が勝手に陸奥国に下向したとして官職を剥奪した。同月、義家・清衡軍は金沢柵に拠った家衡・武衡軍を攻めた。

だが、なかなか金沢柵を落とすことは出来なかったため、吉彦秀武兵糧攻めを提案した。包囲したまま秋から冬になり、飢餓に苦しむ女子供が投降してくる。義家はいったんはこれを助命しようとしたが、食糧を早く食べ尽くさせるために皆殺しにした。これに恐怖したため柵内から降伏するものはなくなり、これによって糧食の尽きた家衡・武衡軍は金沢柵に火を付けて敗走した武衡は近くの蛭藻沼(横手市杉沢)に潜んでいるところを捕らえられ斬首された。家衡は下人に身をやつして逃亡を図ったが討ち取られた。秋口に始まった戦いが終わったのは11月(1087年12月)であった。

 

これを朝廷が義家の私戦と見なしたため、義家は主に関東から出征してきた将士に私財から恩賞を出さざるを得なかった。しかし、このことが却って関東における源氏の名声を高め、後に玄孫の源頼朝による鎌倉幕府創建の基礎となったといわれている。

戦役後、清衡は清原氏の旧領出羽と陸奥のすべてを手に入れることとなった。清衡は、奥州平泉に拠点を築き、実父である藤原経清の姓藤原に復すこととなり、清原氏の歴史は幕を閉じた。

 

この「後三年の役」に、則任(由来)の名が見えるのは、わずかに<白鳥村>だけであった。この白鳥村は、前沢の南、東に北上川を望む白鳥川河畔に位置する。ここに、安倍頼時の子白鳥八郎行任(則任)の館があったという伝説(ここでは「貞任の遺児」ではなく「頼時の子」=貞任の兄弟になっている)は残っていた。しかしそれが、いつのことか定かではないし、九州へ流されたとか茨城へ行ったとか様々な情報があって、その消息を追うことは出来なかった。

 

もうひとつの手がかりは「則任の孫、小太郎季俊(季任の子)が文治五年(1189年)奥州合戦(平泉藤原氏源頼朝の戦い)の時、頼朝の幕下に属し、その子安藤季信は津軽守護に任ぜられた。」という記述である。ただし、これは「後三年の役」の百年後のことであるから、その間のことはまったく分からない。

十三湊の安東氏にたどり着くために、今度は、津軽守護に任ぜられた安藤季信の来歴に取りかからねばならないようだ。

 

(この作業の途中、安東氏の歴史について関連の書籍があることを知った。いま古書店から取り寄せている。次はこれを読んで、安東氏という謎の一端を解き明かしてみたい。)

 

 

山梨県の西を流れる早川の上流、農鳥岳(3,026m)の麓に奈良田という集落がある。平家の隠れ里、などと言われる山深いところで、道は、数十キロも先で北岳(富士山に次ぐ日本第二の高峰)の登山口、標高千五百メートルの広河原に通じている。とはいえ、ここから先には人家がなく、したがって、南アルプスの広大な山域、つまり「異界」に踏み入る、ここがその入り口である。

安東氏はまた別の異界ではないかという思うことがあった。

 

奈良田には、鄙びた温泉があって、湯温はややぬるいが、あまり人が来ないから快適で、昔、湧き水を汲みにあちこち行っていた頃、時々日帰りで行っていた。奈良田へ向かう途中に草塩と言う小さな集落があって、ここの県道の脇のコケの生えた岩の間から水が湧きこぼれているのを、目当てに行くのだが、そのとき必ず奈良田まで足を伸ばした。そのため、このあたりの地理はすっかり頭の中に入っていると思っていた。

河口湖から富士山麓を回って、本栖湖を見下ろす峠道から西へトンネルを抜け、標高を下げていくと下部温泉の町並みが湯煙とともに道脇に見えてくる。やがて富士川を渡り、静岡と甲府を結ぶ幹線道路を横切って、支流の早川沿いの道を進むのだが、ある時、久遠寺から身延山に登ってみようと思い立ち、幹線道路を静岡方面に左折した。

すると、道路標識に、「南部」(方面)という文字が現れはじめるので、ほう、ここにも「南部」があったのかと気にとめたことを覚えている。

 

この南部の話である。

「北のまほろば」の中に、こんな記述があるので、少し長いが引用しよう。

 

「ここでまたしても地域名についての説明が要る。南部とは何かということである。

方角のことではない。

陸奥

という国名が広大すぎるため、何世紀もの間、今の岩手県から青森県東部にかけての大きな地域は南部とよばれてきた。

南部はもと、との様の姓である。

姓より以前は。地名だった。それも、遠い甲斐国(今の山梨県)の地名なのである。

山梨県南巨摩郡富士川右岸の氾濫原に南部という小さな地名があった。いまもある。

十二世紀、源平の頃、そこに豪族がいて、地名を姓としていた。いまでも南部氏が築いた城館の跡が残っている。

その南部氏から三郎光行というものが出てわずかな人数を率い、海路はるかに奥州の地に来たという。

『南部系譜』では唐突にやって来たのではなく、源頼朝の奥州征伐に従軍し、軍功によって五郡をもらったという。しかし無名に近い小豪族が、いきなり五郡も拝領できるものなのか。すべては伝説の霧の中にある。

『奥南旧指録』では、頼朝の時代よりもずっと後のことだという。

甲斐から来た南部三郎光行ら主従七十余人が、鎌倉の由比ヶ浜から兵船に乗って八戸(青森県)に上陸した、という。鎌倉の由比ヶ浜から来た以上、幕府の黙許は得ていたのかもしれない。

時に十三世紀、鎌倉時代の前期である。彼らは観音堂で越年した後、

「百姓の家に入りたまひ、一夜堀をほらせ玉ふ」

という。野盗の類に似ているが、こういう創業の仕方は、室町の頃播州兵庫県)辺りにもあった。

従者に、桜庭、三上、神、岩間という姓のものがいた。桜庭は明治維新まで南部藩における二千石の大身だった。同じく原という姓の者もいた。大正時代の政治家原敬の祖であった可能性が高い。

創業当時の原氏の本国は甲斐だが、桜庭や三上の本国は近江だったらしい。様々に想像すると、鎌倉でごろごろしていた甲斐の南部三郎光行が、

「どうだ、これから奥州を切り取りに行こうと思うが、ついてこないか」

と、幕府の端役にもつけぬあぶれ武者どもをあつめたのかもしれない。こういう想像が許されるほど、当時の奥州は不安定だった。」(「北のまほろば」)

 

その奥州は「後三年の役」(~1087年)のあと、勝利した清原清衡が、名を父親の姓に戻して藤原清衡を名乗り、平泉に拠点を置いて、出羽の一部と陸奥を合わせた広大な地を支配するようになった。むろん源義家が後ろ盾になったことによる。

 

前回の最後に僕は、

 「十三湊の安東氏にたどり着くために、今度は、津軽守護に任ぜられた安藤季信の来歴に取りかからねばならないようだ。」

と書いたが、これでは、時間が二百年ほども飛んでしまう。

そこで、逆から見て二百年の間に、十三湊に安東氏が現れるのはいつだったかそれまで何が起きていたのかを調べてみることにした。

 

「前九年・・・」よりもずっと以前から、十三湊は天然の良港のため、日本列島交易路の中心となり、10世紀後半には十三湖北端に地域経営の拠点となる福島城が築城されていた。「十三」は、語源がアイヌ語の「トー・サム」(湖の畔り)であり、福島城柵を築いた者は不明らしいが、アイヌあるいは蝦夷由来の者かもしれない。

「後三年・・・」のあとには北海道のアイヌとの交易拠点として奥州藤原氏が進出、一族の藤原秀栄が土着して、これが後に十三氏を名乗って、一帯を支配していた。

藤崎安東の系譜をたどることにしよう。

 

さて、藤崎に落ちのびた安倍高星は、ここに城柵を築城しはじめ、その子堯恒の時に安東氏の基盤を確固たるものにした。その勢域が拡大するにつれ、西海岸に開ける十三湊に注目することになる。

第一に、日本海沿海州蝦夷地の広大な地域で交易が出来、莫大な利益をもたらすにちがいない。第二に、岩木川を使えば、容易に往来が出来る。

そうして得た財力を元に、かつて、安倍一族が支配した陸奥一帯を取り戻せると夢想したかもしれない。

 

堯恒の子貞季(貞秀)の時、津軽萩の台(弘前市津賀付近)において、十三秀直と激突(萩野台合戦、1229年)、これを打ち破って十三湊を手中に収めた。安東氏が本拠を十三湊に移すのは、貞季の孫、愛季の時である。高星から数えて五代目(すでに鎌倉中期か?)である。すると「津軽守護に任ぜられた安藤季信」とはどこにあてはまるのか?

それは、ともかく、のちにつくられた系図に「安東太郎を持って当家の仮名となす。」とあって、萩野台合戦の頃から安東氏の称号を名乗ることになったものではないかいうことであった。(「秋田『安東氏』研究ノート」1988年、渋谷鉄五郎)

それに、この「秋田『安東氏』研究ノート」には、続いて

「また、高星、津軽郡安東の地(南津軽郡藤崎)に逃れ、そこを領して安東太郎と称したのにはじまる」(河出歴史辞典)ともいう。安東の地とは、太古の十三湖は後年の藤崎地域まで入り込んでいて、そこを「安東浦」」と称したという」(市浦村史資料)

と書かれている。

 

僕はこれを読んで、もう一度地図をながめてみた。

確かに津軽平野岩木川流域の両側に開けて十三湖に達しているがこの陸地に水がたたえられて最深奥部の藤崎に「浦」が形成されていたことを想像するのはむずかしいのではないかと思った。

能登半島は今年正月に四メートルも隆起した。ここは隆起して出来た半島だということだが、地震はおそらく千年ぶりだったらしい。

すると津軽平野がまるごと隆起して「安東浦」が岩木川河岸段丘、藤崎になるには数千年どころか、数十万年以上はかかると思われる。そんな前に誰が「安東浦」を名付けたものか?

「河出歴史辞典」の記述にしてからが、「市浦村史資料」を元に書かれたものに違いない。

では、「市浦村史資料」とはなにものなのか?

 

僕は国史の専門家ではないと再三言ってきたが、こんな「怪しい」ことを「秋田『安東氏』研究ノート」が平気で記述するのはおかしな話しだと思って本の発行年を確かめた。1988年とあって、安東氏研究もまだ道半ばだった時期で、深く考えもせずにそこにあるものを入れたのだろうと想像した。

しかし、こんな奇妙な話しには裏があるとにらみ、本題と関係ないかも知れないと思いつつも、つい、調べてみることにした。

 

村史資料とある以上、公的なものとして編纂されたと思うが、なんと、中身は『東日流外三郡誌』(つがるそとさんぐんし)という厖大な歴史書をほぼそのまま資料にしたものだった。

東日流外三郡誌』は、青森県五所川原市飯詰在住の和田喜八郎が、自宅を改築中に「天井裏から落ちてきた長持ちの中に入っていた」大量の古文書として1970年代半ばに登場した。この古文書の編者は秋田孝季(福島の三春藩九代目当主)と和田長三郎吉次(喜八郎の祖先と称される人物)とされ、数百冊(巻)にのぼるとされるその膨大な文書は、古代の津軽地方(東日流=ツガル)には大和朝廷から弾圧された異民族の文明が栄えていたと書かれている。

ただし、秋田孝季については、この本についての議論が進んでいくうちに、藩主本人が書いたというには無理が出始めたため、「原本」はいつしか「写本」となり、編者も「秋田孝季」(たかすえ)という縁つながりの別人になったという。

市浦村は、これ(のコピー!)を高額の対価で買い取って、村史として編纂出版した。従って、公的な機関が承認した歴史書として通用するようになったし、国立国会図書館にも収納されているところを見れば、世間には一定程度認められているらしい。

 

興味を持ったことにはトコトンつきあう性格で、今度も、『東日流外三郡誌』について調べてみようと思い立った。

すぐに、各地の図書館やら公的な組織が収蔵しているらしいことはよく分かる。

ところが、次に目に飛び込んできたのは 斉藤光政著「戦後最大の偽書事件 「東日流外三郡誌」 (集英社文庫)であった。

あれ?どこかで見た作者だ。

そう、「安彦良和、原点(The Origin) 戦争を描く、人間を描く」(岩波書店、2007年)のインタビュアーであり著者である。青森県の県紙、東奥日報の記者で、僕はもちろん会ったことはないが、この本の成立についてほんの少し聞いていたので覚えていた。

この斉藤さんが、1992年、政経部から社会部に異動してはじめて扱った事件がこれであった。事件といっても、九州の大分在住の人が和田喜八郎に貸した図版を盗用され、返してもらえないので、裁判に訴えた著作権違反と損害賠償の民事訴訟だった。

 

 

五所川原からみて青森市はほぼ真東にある。しかし、行くには一旦南東の弘前―藤崎方面に向かい、それから北上しなければならない。津軽半島東部には竜飛岬の先端に至る小高い山脈(中山山脈)が通っていて、これが行く手を阻んでいるからだ。わずかに、いつ頃通したものか分からないが、県道26号線(津軽あすなろライン)が五所川原市飯詰あたりから山脈を越えて細々と青森市郊外の油川に通じている。冬期間は閉鎖という山深いところだ、

グーグルアースで調べると、その真ん中辺り、県道からかなり外れた山中に、「石塔山大山祇神社」という目印がある。これは、別の地図上では十和田神社となっているが、「石塔山荒覇吐(あらはばき)神社」ともいうらしい。荒覇吐神社というのは、主として関東地方に散見されるもので、この津軽地方には他に存在しない。正確に言えば、戦後この神社に命名された時からそうなった!のである。「荒覇吐」の由緒は不明ながら、大和朝廷に追いやられた蝦夷由来の神をまつるということで、日本古来の神とは異質であるという説があるらしい。

 

ここは、「東日流外三郡誌」騒動以来、結構知られるようになった場所らしく、訪ねた人の記録によると、県道から外れ細い道をたどって三十分ほど歩くと、林の中に朽ちた鳥居が現れ、その脇に大きな石が並べられており、奥に木造の社が建てられているという。

しかし、この「石の塔」と呼ばれる場所に神社が建立されるまでは、十和田様という水神と山の神がまつられた小さな祠があるだけで、一帯で炭を焼く村人が通るだけの何もないところだった。訪ねた人がたどった道は、焼き上がった炭を運び出すための馬車の通り道として、戦後まもなくの頃につけたものだった。 

この神社がすべての始まり、だったように思える。

 

 

 

 

 

 

 

僕は、安東氏という謎を追いかけて、それが十三湊以降、どうなったかを確かめればそれで満足だと思っていた。井手君が、興味を示した60=70年代初頭の頃から見ると、彼の勘が正しかったように、かなり広汎に「安東氏」についての関心が高まり、関係の文献も多くなっていた。

ところが、調べると資料によって内容や時系列が違い、公的な出版物でさえ伝聞や偽書の引用などが混じって、その矛盾を糺そうとすると、さらに混乱するという有様で、正確な歴史を知ることなど困難かと思いはじめていた。この調子では、何が本当なのか?

正直のところ、これではもう現代から見て分かる範囲でいいやと思うようになった。

 

それはそれでいいのだが、斉藤さんが戦後最大の偽書などとセンセーショナルに言うものだから、立ち止まって何があったか確認しておこうという気になったのだ。とりわけ、興味を引くのは事件の主役である和田喜八郎という人物が、「安東氏」を利用しながらどのようにして人を欺いたかである。

 

ここから先は、斉藤光政著「戦後最大の・・・」に書かれていることに全面的に寄りかかって、というより、書かれていることを紹介しながら僕の興味について説明しようと思う。

僕の興味というのは、2005年3月に書いた新国立劇場上演、劇評「花咲く港」が念頭にあった。これは菊田一夫の戯曲で、昭和18年初演であるが、同年木下恵介監督デビュー作品として、小沢英太郎、上原謙水戸光子らで映画化されたものである。

ある南国の島に、かつて有力者として住んで居た人の息子と名乗るふたりの青年が、やって来て、村おこしとも言える造船会社を立ち上げ、島人にも出資を募ろうとする話しである。

このふたりが詐欺師で、その手口や欺される方の事情も対置されることによって生まれるドラマ性。それは、喜劇というにはいささか強すぎる、詐欺師の行動にただよう「滑稽さ」あるいは、そこはかとない「おかしみ」、それにまんまとやられてしまう普通の人々に対する密かな同情といった観客に生まれるであろう心理、それが僕の関心である。

 

和田喜八郎という一生は、人を欺くという点では一貫していたが、塀の中へ転がり込むようなことは一度もなかった。それだけ用心深く嘘に嘘を重ねた様子は天才的と言える。

残念ながら、斉藤さんの記事は、新聞記者らしく事実を追求する姿勢に徹していて、しかも和田喜八郎が自分に批判的な記者、斉藤さんと直接会うのを避けたこともあって、何故それに思いついたか、思いつきの殴り書きとはいえ膨大な量の古史・古書をねつ造する知識はどこから得たのかなど、周辺の取材を含めて徹底しておらず、彼の詳細な経歴や深層心理に迫っているわけではない。

だから、詐欺師の側の内面については知りようがないが、時々行動に演戯性が発揮され、その照り返しとして被害者の心理が浮かびあがることがある。人は疑いを持ちながら、目の前のことをなかなか否定は出来ない。そのとき詐欺師は何を感じていたのか、その心理的な駆け引きについて、斉藤さんの追求は今少しと思うこともある。

また、せっせと偽の文書をつくり、拾ってきたガラクタに勝手な価値をつけ、いくら稼いだのか? 偽書を何冊か発行し、その印税はいくらになったのか?それで和田喜八郎の生計は立っていたのか? ということについて、斉藤さんの関心はあまりなかったと見えて、もうひとつのエンジンである経済的な動因ははっきりとはわからない。一生をかけるほどの結構な収入になったものなのか?

 

 

さて、神社に戻ろう。

戦後まもなくの頃、のちに「石塔山荒覇吐(あらはばき)神社」と呼ばれるようになる、石の塔の水神さまと山の神がまつられた祠の側の沢で、当時、二十代の和田喜八郎と父親が炭焼きの窯をつくるのに整地していたら、アイヌの土器が出てきたという。これでことさらのように騒いで、石の塔には何かあるという心証を飯詰村(当時)の人々の間に形成していこうとしていたようだ。

関係者によれば、1951年の飯詰村村史編纂の時は、ここに秘宝が隠してあるとか安東、安倍氏の墓だとかいう伝説のかけらもないただの朽ち果てた祠だった。

ただし、和田喜八郎の家の天井裏の長持ちから出てきたという大量の文書は、数年前には「地中」から出てきたという触れ込みで(当時、和田の家はかやぶき屋根で、天井裏はなかった)すでに存在していた。これを市浦村でやったように自分の住んでいる村史に取り込むのは、村の誰もが知っている土地のことだからさすがにはばかれたのだろう。

 

東日流外三郡誌」が「市浦村史資料編」全三巻として刊行されるのは、1975年から77年にかけてである。これを編纂した村の関係者によれば、初めは安東・安倍氏の財宝がどこかの洞窟に隠してある、ついてはその発掘調査をしないかという話しだったらしい。それが出てきたら、村のPR になるし郷土史の材料になると考えて、その話しに幾許かの金を出資した。しかし、なにもでてこないから、多少焦って、あまり深く検討もせずに「市浦村史資料編」を出版することにしたというのである。

 

では、「石塔山荒覇吐神社」はいつ出来たものか?

1978年に作成された「建設趣意書」に名を連ねたものは、和田はもちろんだが、「講中代表総代 建設委員」は、藤本光幸、同じく「講中総代」相馬弥一郎という人物である。

 

藤本光幸とは何者か?

斉藤さんの取材によると、藤崎町の資産家(らしい)で、「和田の最大のスポンサー」であり、しかも「外三郡誌の所有者の一人」とされていた。  藤本が編者を務めた外三郡誌関係の本にも「外三郡誌の詳細を語る第一人者」と紹介され、本人自身も「生涯の使命として、和田家文書の原稿化に努めている」と力説していた。外三郡誌は正しいとする、歴史学者古田武彦など、いわゆる擁護派(真書派)の中心メンバーの一人であった。ということになる。とはいえ、藤本の来歴についてこれ以上の取材はなく、この男が何者なのか詳細は不明である。ただし、藤崎の町を調べると、藤本光幸商店というのがあり、看板にかすれた文字に輸出商と見えるが、何の輸出か?それ以上は分からなかった。

 

もう一人の、相馬弥一郎は五所川原で古物商を営む老人で、和田の骨董仲間、商売の師匠・相談役にあたる人物らしいが、斉藤さんがこの趣意書を発見したときは物故者だった。

すると、和田喜八郎の生業は古物商だったのか?

相馬弥一郎には息子が居て、和田のことをよく知っていた。彼によると、

市浦村史を出した後、世間の評判がよろしくないところから、和田は疎んじられ、収入源が途絶えたので、「東日流外三郡誌」のルーツを市浦村からどこかへ移す必要が生じた。

そこで、おそらく、石の塔にあった祠を根拠に神社を作ることを思いついた。その頃まだ若輩ものだった和田は、それを年長の相馬弥一郎に相談し、結果、土地の代議士の名前を借りて寄付を集め(1978年)、山の神をまつる神社建立(1980年)にこぎ着けたということであった。

1983年に相馬弥一郎が亡くなると、単に水神と山の神をまつる神社が、和田の手によって、アラハバキがまつられ、安倍一族の墓になり、ならべられた大石に北斗七星という意味が与えられ、「東日流外三郡誌」を書いたという秋田孝季の石像(近所の石材店からもらってきたもので秋田とは何の関係もない)が置かれて、めでたく「石塔山荒覇吐神社」になったのだ。

相馬弥一郎の息子の言によると、この神社は由来はもちろん、中身もすべてでたらめな作り話で、要は和田が古物を売るための道具の一つにすぎないのであった。

 

 

丑寅日本記」が和田家文書として発見されたのは1991年のことである。例の藤本光幸・編として、五所川原市の新聞社から出版されはじめたのは1992年からで2007年頃まで断続的に続く。

 

戒言

此の書は他見無用門外不出と心得ふべし。

寬政五年八月廿日             秋田孝季

                     和田長三郎

という記述からはじまる全十一巻の長大なものである。

 

この冒頭にある「他見無用門外不出」とあるのが味噌で、「原本は出せない。コピーなら出す」といって、紙や、墨、筆跡について古書としての鑑定を巧みに避け、真贋の判断をむずかしくした。

 

寛政の人、 秋田孝季と和田長三郎は、蝦夷地を越え、ロシアにいたり、アムール川を旅する。しかも、見聞したものを現代のマンガみたいな画で描写しているのだ。一見、笑うしかないものだが、人を欺すにはこんなもので十分なのだろう。

僕は、内容については興味がなかったので、ちらっと見ただけだが、よくもまあ、こんな嘘を思いついて、しかも、古文を装ういい加減な文体で長大な文章を書けるものだと感心してしまった。この能力を他に向けたら、少しは人に尊敬されただろうにと思う。

 

 

1991年、和田家文書として「丑寅日本記」発見の頃、秋田県田沢湖町が町史編纂作業をやっていた(出版は1992年)のが和田喜八郎の耳に入っていたかどうか?

あるいは、耳に入ったから「丑寅日本記」はある意味「大急ぎ」で準備されたか?

 

この話は、実に傑作である。

 

田沢湖町教育委員会の町史編纂室長が、どう言う訳か和田喜八郎と個人的に親しい間柄だったらしい。このいきさつは斉藤さんの取材にない。が、

当然、和田家文書の一つ「丑寅日本記」に書かれてあることは、信じたものと思われる。何しろ親しいのだから。

 

その田沢湖町に生保内というところがある、「吹けや生保内東風(おぼねだし)七日も八日も(ハイ)・・・」と歌う民謡で知られたところだ。そこの辺鄙な、人もいかないような場所に、四柱神社という小さな神社がある。地元では荒覇吐神社ともいわれていたらしいが、もともとの由来が何なのかは調べても分からない。「丑寅日本記」からの引用が、町の正史になっているからここは「青龍大権現がおわす、田沢湖のたつこ姫の墓があるところ」である。当時は、たつこ姫は、民話の中の人だからその墓があるのはおかしいだろうと思う人もいたらしい。今では誰も信じていないという。

 

丑寅日本記」には、千年前の「前九年の役」で敗北した安倍一族が、この四柱神社にまつられていたご神体を持ち去り、津軽五所川原の石塔山荒覇吐神社に祀っていたと書かれている。

文書発見の翌年、1992年の二月に和田家文書擁護派の大学教授、古田武彦田沢湖にやって来て、文書について講演、続いて五月には「東北王朝秘宝展」が開催されている。

この「・・・秘宝展」の前に、 和田喜八郎がやってきて、 陳列品には四柱神社のご本尊も含まれるので、この際、930年ぶりに、このご神体を本来の場所である四柱神社遷座することにするという。そこで、それを受け取りに、田沢湖町町史編纂室長と神社の氏子代表ご一行が、五所川原市の石塔山荒覇吐神社へ向かうことにした。

和田喜八郎は、受け渡しの現場で氏子たちに、人目にさらすと天罰があたるから、絶対に見せるなといい聞かせ、ご神体は時価にして2~3億円もする貴重な遺物であると言明している。

田沢湖町町史編纂室がいくらの対価を払ったかは、税金の使い道のことだから当時の記録を見れば分かるだろうが、今のところ不明である。

 

斉藤記者が、この遠い秋田県で行われた遷座イベントに疑いを持って、田沢湖を訪ねたのは、二年後の1994年のことである。

その直前である三月に田沢湖町四柱神社に、和田喜八郎から新たに新しいご神体が贈られたことを聞いていた。それは、縄文時代の遮光式土偶であるが、青森県亀ヶ岡遺跡から出土したものが国宝として有名で、同じものがいくつもあるはずがない。調べると、弘前市でつくられている比較的精巧に出来たレプリカであったようだ。

田沢湖町では、そんなものがあってもしようがないと思ったが、ことわることも出来ず、受け取ったということらしい。ここでもいくらかお金が動いたのだろう。

(つづく)

 

 

田沢湖町四柱神社とは、生保内の街の東(田沢湖とは反対側の)の小高い山の麓にある、いわゆる鎮守の森の小さな社にすぎない。

前回書いた「たつこ姫の墓」は、近所にあるちがう場所の青龍大権現という社のことだった。ただし、「たつこ姫云々」は『丑寅日本記』が根拠であるというから誰も信じてはいないというのは本当だ。

訂正しておこう。

 

そこで、あらためて、四柱神社のことを調べてみた。

写真では、杉木立の中に小振りながら新しい立派な社が鎮座している。遷座式の時に四十五万円かけたものらしい。

神社の前にはそんなに古くない、由来を示す看板が立っている。

それにはこう書かれていた。

 

四柱神社由緒

所在地 田向塒森

  荒脛巾太郎権現

 祭神 伊邪那岐尊 伊邪那美尊

    天照大神 素戔嗚尊

外宮の神として

 秋葉山(火の神)天の神

 大山祇神(山の神)地の神

 馬頭観音 

 神社上手に泉あり 水の神

以上の諸神を現在は祭祀して居るが、、前記のように、もともとは荒脛巾神を祀ったものである。荒脛巾神とはすなわち安日彦王であり、また自然を祭った神でもある。天、地、水、これが古代祖先の信仰した神であった。当神社は信仰厚い氏子の手で、その神を失うことなくこれまで守り信仰してきたものである。

その間には、事あるごとに数多くの奇蹟があり、地元民の信仰をさらに深くしている。

当神社の祭主は、始めは生保内城(古舘)の安倍一族と考えられ前九年の役(1063年)で安倍一族が滅びた後、地元民がこの神を地元の守り神として信仰してきた。

明治の始め神社神道の勃興という大きな曲面にあたり、地元神の名を掲げるに憚るところがあり、止むを得なく前記の現際神の四柱神を届出し四柱神社となったものである。

なお、当神社の創建は養老二年(718年)となって居るが、実際はもっと以前から祭られて居ったものと考えられ、その証としては神社の近辺から無数の縄文土器類の出土がある。

現在は、田向、野村、相内端の産土神として氏子八十六名あり、例際日は毎年八月十四日で盛大に行われている。

                         四柱神社氏子一同」

 

つまり、もともと荒脛巾太郎権現を祀っていた(それと天皇家の祖先がいっしょに並べられているのは少しおかしいけど)ものだが、明治の廃仏毀釈の時、荒脛巾神では天皇家に対して具合が悪いから、天と地と水に、馬頭観音を加えて四つにし、四柱神社として届け出たということらしい。ということは、四柱神社と言う神社名は、明治以降のものだった。

ここで、「当神社の祭主は、始めは生保内城(古舘)の安倍一族と考えられ」という一文はいつ「考えられ」たものか? 『丑寅日本記』の記述が根拠になっているとすれば、これはでたらめである可能性が高い。それと関連する安倍一族が持ち去ったご神体が帰ってきたことには一言も触れていないのは、不思議だ。もっとも祀られている青銅製のご神体は素性が怪しいなどと書けるものでもないだろうが。

 

田沢湖町がまんまとのせられた、この事件はどんないきさつで起きたのか。前回の繰り返しになるが、もう一度確認しておこう。

斉藤さんによると。こうだ。

遷座式(1992年)の五年前、1987年に新青森空港開港記念と銘打って、『安倍・安東・秋田氏秘宝展』なるイベントが五所川原市で開かれた。そこに田沢湖町の町史編纂室の職員が来ていたことから、和田家文書と田沢湖町役場の接点ができあがる。何故、秋田県から五所川原にわざわざやって来たかは不明である。和田が招待したのかも知れない?

このガラクタが並べられたという特別展の中身は、その後、田沢湖町で開かれることになる『東北王朝秘宝展』とほぼ同じであった。 ガラクタだが、和田が恭しく由緒を語り、それらしく装ってならべれば、なんとなく秘宝に見えたのだろう。何しろ疑うようなそぶりを見せると和田は、恐ろしく怒ったという。

 

そして、四柱神社のある生保内地区に関する「新史料」が出てきたのは、『安倍・安東・秋田氏秘宝展』の翌年の1988年。さらに不思議なことに、1991年にはより詳しい新史料である『丑寅日本記』が見つかったとして、和田がわざわざ田沢湖町まで持参した。それがそのまま『田沢湖町史資料編』に収録され、遷座式の根拠ともなった。  

当時、田沢湖町の関係者には和田から次々と関係文書が送りつけられてきた。箔づけのために、古田教授が外三郡誌を賞賛する講演を行ってバックアップしていたことは先に説明した。

 

和田が、四柱神社のことを知ったのは、青森県五所川原田沢湖町、町史編纂室の職員と会ったときなのか、それとも田沢湖周辺は、安倍貞任らの「前九年の戦」役の場であり、「後三年の役」の清原氏の支配地であったことを知っていたのか?

どちらにせよ、後から見ると、これはすべて調べ尽くされ、安東氏につながる「…秘宝展」から『丑寅日本記』発見と遷座式に至る一連のプロジェクトがあらかじめ準備計画され仕掛けられたものと見えるのである。和田が田沢湖町と触れた瞬間から、組み上げられていった物語であり、計画だったことはほぼ間違いないという人もいるという。それにしても、こういう壮大な嘘を思いつく知性には並々ならぬものが感じられる。

さすが吉幾三という異才を生み出す土地柄である。

 

その「遷座式」の実況を斉藤さんがまるで見ていたような新聞記者らしからぬ名文で表現しているところがある。

 

「話しは1992年8月8日秋田県東部の田沢湖町に遡る。

いつもなら山間の深い闇に沈み、音一つしない生保内地区が、その夜だけは異様な興奮に包まれていた。道の辻辻にはかがり火がたかれ、大勢の住民が沿道にずらりと並んでいた。中には、両手を合わせ拝むような仕草を見せるお年寄りもいた。・・・・・・

午後八時半。ほら貝が鳴り響き、たいまつが怪しく揺れる中、平安絵巻を思わせる鎧と白装束に身を包んだ男たち十五人が姿を現す。一行の中程には神輿が据えられ、「ご神体」が大切に祀られていた。御輿が向かう先は、生保内地区に古い言い伝えが残る四柱神社。一行は二十分ほどで、こんもりした森のなかに広がる境内に到着した。侍大将にふんする先導役が、鳥居の前に張られたしめ縄を威勢のよい掛け声とともに切り落とす。境内のかがり火が一段と燃え盛った。  

そのかがり火を前に、稚児役の少女が御輿から厳かに御神体を取り出す。氏子ら住民の視線が一斉に御神体に注がれる。御神体は二十センチほどの青銅製で、住民の目には仏様のようにも映った。  

少女は神社の階段を慎重に一歩、また一歩進む。そして、木目も新しい神殿にうやうやしくささげると、儀式は最高潮に達した。先導役が高らかに宣言する。 「ここに鎮座し、われわれをお守りください」  

御神体が九百三十年ぶりに、遠く青森から帰ってきた瞬間だった。それまで神官姿で儀式全般を指揮していた初老男性の目が異様に輝いた。

彼は腰に刀まで差す入念な出で立ちで、この儀式に力が入っていることは誰の目にも明らかだった。それもそのはず、奉納されたご神体は彼が責任者を務める五所川原の石塔山荒覇吐神社からはるばる運ばれたものだった。」(斉藤光政. 戦後最大の偽書事件 「東日流外三郡誌」 )

 

和田喜八郎が、神職の白装束で腰に刀まで差して、一世一代の大芝居を打ったのは大成功だった。ご神体がどう見ても仏像にしか見えないと言うことから多少疑いを持った人がいなかったわけではないが、このときは和田が決めた段取り通り、儀式は厳かに執り行われ、遷座の催しには誰もが満足した、ようだ。

この遷座式のために氏子たちが集めた費用は120万円余だったらしい。

ここでも、和田の演出家としての才能には並々ならぬものがうかがえる。

この後が実に面白い。

 

遷座式の後、石塔山荒覇吐神社に御礼参りをしようと田沢湖町の氏子代表五人が飯詰山中を訪れる。夜中に神社で神事が行われるというので、バスの中で仮眠を取って待っていたところへ、ようやく探し当てたという態で人がやって来た。自分たちは、岩手県山田町の僧とイタコだが、神様のお告げがあるのでそれをお伝えしに来たという。

 

四柱神社氏神、荒脛巾太郎権現がイタコの口を通して現れ、このたびは、氏子たちのおかげで無事本宮に帰ることが出来て非常に喜んでいる。これからは皆さんの安泰と子孫繁栄のために尽くすと告げ、何度も御礼をいったという。また、イタコの口から八幡太郎義家が現れて、前九年、後三年の役では安倍一族をさんざん痛めつけたことを氏子たちに謝り、これからは皆さんを守護すると約束して帰った。

 

これを読んで、僕は大笑いをした。

和田喜八郎の「演戯性」が遺憾なく発揮された出来事と言ってよいのではないか?

夜九時の真っ暗な山の中である。氏子たちはバスの中、とはいえ、外の暗がりから聞こえてくる、うなるようで判別つきにくいイタコのご託宣は、本物らしく聞こえたに違いない。源義家が登場して謝罪したというのには思わず吹き出してしまったが、その場で聞かされたものは、古代の将軍の言葉が聞けて大いに満足だった、かもしれない?

それにしても、何故山田町なのだろう?盛岡の遥か東の海岸線にある港町から、津軽の山の中にはるばるやって来たわけは何だったのだろう。あるいは『丑寅日本記』に関連の記述があるのだろうか。

 

このお礼参りは、和田が仕掛けたものだろう。

遷座式の大成功に気を良くした和田が、なお田沢湖町を惹きつけておこうとしたのだ。例の縄文時代の遮光式土偶を持ち込むのはこの二年後であった。

 

田沢湖町遷座式の前、1987年に新青森空港開港記念との『安倍・安東・秋田氏秘宝展』なるイベントが五所川原市で開かれたと書いた。これはまた五所川原市立図書館10周年記念行事でもあったというから、和田は五所川原市にも食らいついていたらしい。

このとき、のちに発見される『丑寅日本記』の信憑性を補(おぎな)うような出来事があった。

1987年7月、安倍晋太郎・晋三親子と岡本太郎が、互いの先祖、安倍氏の墓として石塔山荒覇吐神社を訪れ、参拝したという。いまでも参拝の記念碑が残っているらしい。この時期はまだ、「東日流外三郡誌」に疑義が出されてはいなかったから、政治家親子はこの神社の由来を確かめもせずに本州の端っこの山の中まではるばるやって来たのだ。

おかげで、ただの水と山の神を祀る祠だった、「石塔山荒覇吐神社」は、愈々箔がついて、それらしくなっていったのである。

 

 

話が、偽書の存在というとんでもない方向に進んでしまった。

そろそろ、「安東氏という謎」に戻そうと思う。

 

ここまで、藤崎町が「浦」だったということに疑問を持ったので、それは何が根拠となったのか、その資料を調べてみようという気になったのがきっかけだった。

すると、1948年頃に発見されたという、いわゆる和田家文書なる厖大な文書の中の「東日流外三郡誌」がその元になっていることが分かった。追いかけてみると、それを市浦村が村史の資料編として刊行したことによって、真贋論争を引き起こしたが、1990年代までは、はっきりとした結論が出ないまま、一部では真書と信じられてきたようだった。政治家の安倍晋太郎、晋三氏が石塔山荒覇吐神社を参拝した1987年頃には、学者の世界はともかく、明らかに一般の世間では論争があることすら知らなかったと推察できる。政治家が何の疑いも持たず、本州最北端の山の中の神社を訪ねたというのがその証拠であろう。

 

僕が、うわさ、つまり、十三湊で繁栄した安東氏が津波に襲われ一夜にして跡形もなく流され滅びてしまったという噂を聞いたのが、いつだったか記憶にないが、実は、これも「東日流外三郡誌」に書かれていることのようだった。いつのまにか、すり込まれていたくらい、その影響は深く広く浸透していたというべきだろう。他にも「秋田、安東氏研究ノート」がそうだったように、「東日流外三郡誌」の引用であることが常識と化して流通していることが存在する可能性は高いのではないかと思った。

2000年前後になって、市浦村富山大学人文学部考古学教室に依頼して十三湊の発掘調査を何回か継続的に実施している。市浦村は、1975年から刊行された「村史」に対する疑いを自ら晴らす責任を感じたからに違いない。それだけ「安藤氏」については、分からないことだらけであったということだろう。何回にもわたって行われた発掘調査の報告書にザッと目を通したが、調査の徹底と安東氏の繁栄ぶりは想像以上であったことが分かる。

 

これ以降はインターネットの世界が急速に拡がり、斉藤さんの調査報告はもちろん、情報にアクセスすることが容易になったせいもあって、偽書であることはほぼ一般にも認定されていると言ってよい。とはいえ、一部では未だに和田文書を公開しているサイトもあり、関心は根強いといってもいいのではないか。

これは斉藤さんも言うように、古代史への尽きない興味に対して、和田文書の内容が、こうあればいいのにと言う潜在的な願望に応えた形で構成されているからかもしれない。和田喜八郎は、それを巧みに利用し、金に換えていった天才的な詐欺師だったというべきだろう。

 

僕は国史の専門家ではないが、一応「史料批判」は、歴史を語るときは必須条件と思っていたので、つい脇道にそれてしまった。脇道で垣間見えたことは、歴史資料というものは、思うほど多くはなく、その流れは、あたりまえかもしれないが、推定でつないでいくしか方法がないものだということであった。

 

 

ここで、安藤氏の行方をたどるために、先に取り上げた「続群書類従」の記述まで、遡行しよう。

「小太郎季俊(則任の孫、季任の子=安倍頼時から数えて四代目)は文治五年(1189年)奥州合戦(平泉藤原氏源頼朝の戦い)の時、頼朝の幕下に属し、その子安藤季信は津軽守護に任ぜられた。」(弘前大学学術情報リポジトリ「東水軍史序考」佐藤和夫)とあるが、頼朝はこれより前、1185年に朝廷から「守護・地頭の設置」の権利(文治の勅許)を得ているから、平泉攻めの後、参戦した安藤季信を津軽一帯の守護にしたのだろう。

 

藤崎町史」によると、同じ文治年間(1185年から1189年)の頃、十三湊周辺は十三藤原氏初代秀栄(奥州平泉藤原氏三代秀衡の弟)が福島城を築き、中央統治の力がおよばない独自の政権を確立し、繁栄していた。しかし、三代秀直(ひでなお)の頃、執権・北条義時(北条家二代)が十三湊を直轄地にしようと、 安東貞季(さだすえ)を外三郡(津軽半島)の蝦夷管領に任命、貞季はその拠点として福島城の北方・小泊に、城柵を築いた。 この貞季が津軽守護、安藤季信から数えて何代目にあたるのかは、調べていない。いずれにしても、このときはまだ、安藤(東)氏は十三湊へ進出していない。

 

ところで、小泊とは、十三潟の北、津軽半島の真ん中辺りから日本海に突き出た小さな半島にある港で、北に開けたわずかな平地は山に囲まれた天然の城柵といってよいところだ。福島城から見たら、目の上のたんこぶのような位置にある。

 

僕は、学生の頃、アルバイトでペプシコーラのルートカーに乗っていたことがあったが、その仕事で小泊に行ったことがある。

半島の付け根の山道を横断して、北の方角に降りていくと、林の隙間から突然、鏡のように静かな海面が現れる。それは小さな漁港だった。昼時で、商売先の家の玄関で弁当を使わせてもらうことにして、上がり框に坐っていたら、奥から家の人が何やらお盆に載せて運んでくる。小さな丼の水の中にサイコロに切ったものがたくさん入っている。なにもないけど、飯のおかずにといって置いていった。一口食べてみる。水はただのうすい塩水だった。クリーム色の賽の目の身が何かの貝だとすぐに気づいた。アワビの水貝というものを生涯初めて口にしたのがその時だった。あの夏の昼下がりに味わった冷たい歯触りの美味は、五十年以上前のことなのに、いまでもありありと思い出される。

小泊といえば、フォークシンガーの三角寛が生まれたのも、ここだ。吉幾三といい津軽はユニークな音楽人を輩出する。

 

戻ろう。

小泊に城柵を設けたことに秀直は激怒し、早速これを攻め落とし、その後、貞季の居城・藤崎城に向けて進軍した。寛喜元年(1229年)、両氏は平川沿いの萩野台でぶつかる。この十三藤原氏と藤崎安東氏の戦いを「萩野台の合戦」という。当初は十三藤原軍優勢だったが、大雨による増水により立ち往生していたところへ、 曽我氏が加勢し、背後から奇襲をかけたことにより形勢が逆転。13日間続いた攻防もあっ けなく終わり、藤崎安藤氏が勝利する。

以上のような記述が「藤崎町史」には見えるが、根拠になる資料がなにかについては分からなかった。

 

「萩野台の合戦」で勝利した安藤氏は、1229年以降、藤原氏にとって代わって、十三湊に進出したのではないかと推測されるが、十三湊を支配した時期については諸説あり確定していないという。

 

「萩野台の合戦」とは別に、「北畠顕家安堵状」によると、この鎌倉末期から南北朝時代にかけての安東氏の支配領域は、陸奥国鼻和郡絹家島、尻引郷、片野辺郷、蝦夷の沙汰、糠部郡宇曾利郷、中浜御牧、湊、津軽西浜以下の地頭代職となっており、現在の青森県地方(=津軽半島および下北半島)のうち八戸近辺を除く沿岸部のほとんどと推定されている。この中に十三湊も藤崎も見当たらないが、湊、津軽西浜がそれだという説もあるらしい。具体的な記述が見られない事情についてはよく分かっていないという。

なお、南部氏はすでに八戸近辺に拠点を築いている時期であり、その関係についてもこの時期はっきりとはしていない。

 

記録によると、1268年(文永5年)になって、この地方のエゾ(蝦夷)が、蜂起して、代官職である安藤氏が討たれるという事件が起こる。原因は、執権北条家の得宗権力の拡大で、収奪が激化したことにより、土着の民が反旗を翻したことにあった。また、日蓮宗の日持ら僧による北方への仏教布教が進んだことや、勢力を拡大しようとする元朝が盛んに樺太アイヌ征討を行っていることが遠因であったことが指摘されている。 

 

「萩野台の合戦」のあと、十三藤原氏に代わって十三湊に安藤氏が入ったことは確実だが、その実態は、2000年になって進んだ市浦村の発掘調査(富山大学人文学部)や国立歴史民俗博物館が行った発掘調査によって、次第に明らかになっている。

 

また、安藤氏が歴史に登場する事件が、1318年(文保2年)に起こる。以前から続いていたと見られている蝦夷代官・安藤季長(安藤又太郎)と従兄弟の安藤季久(安藤五郎三郎)との間の内紛に、1320年(元応2年)出羽のエゾの再蜂起が加わった。内紛の背景には、本来の惣領であった五郎家(外の浜安藤氏)から太郎家(西浜安藤氏)に嫡流の座が移ったことがあるとする見解がある。

 

 1322年(元亨2年)、紛争は得宗公文所の裁定にかけられたが、『保暦間記』等には、内管領長崎高資が対立する二家の安藤氏双方から賄賂を受け双方に下知したため紛糾したものであり、エゾの蜂起はそれに付随するものとして書かれている。

 1325年(正中2年)、北条得宗家は蝦夷代官職を季長から季久に替えたが、戦乱は収まらず、却って内紛が反乱に繋がったと見られている。(なお『諏訪大明神絵詞』には両者の根拠地が明確に書かれていない。季長は西浜折曾関(現青森県深浦町関)、季久は外浜内末部(現青森市内真部)に城を構えて争ったとする説と、その反対であるとする説がある。)深浦町は、十三潟の遙か南、秋田県境に近い港町であり、そこから青森市までという広い版図の中を安東氏が治めていたことになる。

 

その後も季長は得宗家の裁定に服さず、戦乱は収まらなかったため、翌1326年(嘉暦元年)には御内侍所工藤貞祐が追討に派遣された。貞祐は旧暦7月に季長を捕縛し鎌倉に帰還したが、季長の郎党や悪党が引き続き蜂起し、翌1327年(嘉暦2年)には幕府軍として宇都宮高貞、小田高知を再び派遣し、翌1328年(嘉暦3年)には安藤氏の内紛については和談が成立した。和談の内容に関しては、西浜折曾関などを季長の一族に安堵したものと考えられている。

 

 

この安藤氏の乱(あんどうしのらん)は、御内人の紛争を得宗家(北条家)が処理できずに幕府軍の派遣となり、更に武力により制圧できなかったことは東夷成敗権の動揺であり、幕府に大きな影響を与えたという見方が定着している。後世に成立した史書においては、安藤氏の乱、エゾの乱は1333年に滅亡する幕府の腐敗を示す例として評され、幕府衰退の遠因となったとする見解がある。

 

鎌倉時代後期から室町時代には、安藤氏の中に、南下し秋田郡に拠った一族があり、「上国家」を称した。対して、津軽に残った惣領家は「下国家」と称する。下国家は宗季以降5代にわたり続き、南北朝時代には南北両朝の間を巧みに立ち回り、本領の維持拡大に努め、室町時代初期にかけて勢力は繁栄の最盛期を迎えた。そうした中、安藤氏は、関東御免船として夷島を含む日本海側を中心に広範囲で活動する安藤水軍を擁し、しばしば津軽海峡を越え夷島に出兵し「北海の夷狄動乱」の対応にあたっていたという。

 

しかし下国家は最盛期後間もなくの15世紀半ば頃、東の八戸方面から勢力を伸ばしてきた南部氏に十三湊まで追いつめられその後夷島(北海道)に逃れた。南部氏は、時の室町幕府に巧妙に取り入り、領土を安堵されつつ地位を築いていったもので、さらに秋田の鹿角郡田沢湖から横手辺りまで進出しようとしていた。つまり、安藤氏が築いた版図を遥かに超えて出羽領まで占領しようとしていたのだ。

十三安藤氏は、いったん室町幕府の調停で復帰したものの再度夷島に撤退し、夷島から津軽奪還を幾度も試みたが果たせなかった。ここで、十三湊を拠点として栄えた安藤氏は、北海道で命脈をつないだが、その後消滅する。 

 

「北のまほろば」で、安藤氏が十三湊から姿を消したとあるのは、一族がもともと植民地のようにして領有していた北海道の渡島半島に逃れた時のことであった。

 

 

前回、「北海道で命脈をつないだが、その後消滅する。」と書いたが、実際は、北海道に逃れたあと、十三湊、安藤康季・義季父子が捲土重来とばかり、北海道渡島半島において軍勢を調え、津軽西浜に上陸、南部氏に戦いを挑んでいる。

しかし、そのさ中、岩木山麓で康季が病死し、義季もまた攻め込まれて自刃して果て、義季に子がなかったため、十三湊下国安藤氏嫡流の血が途絶えたのであった。時に、1453年(「応仁の乱」の十年ほど前になる)、およそ200年にわたる十三湊を中心とする安藤氏の繁栄に一旦終止符が打たれることになった。

 

「北のまほろば」が書かれたとき、安藤氏嫡流がこのようにして滅んでいたことを司馬遼太郎は認識していなかった。

安藤氏には、さらに、この続きがあった。

 

新羅之記録」(江戸時代に松前藩が編纂した自藩の歴史書)によれば、それより少し前、安藤一族の内、南部に攻め込まれて敗退し捕虜となった安藤政季は、母親が南部と縁続きだったことにより、下北半島の田名部に土地を与えられて、留まった。南部の人質、または傀儡である。南部の狙いは、岩木山麓で討ち死にした康季・義季父子に代わって政季を十三湊下国安藤家惣領として、これを支配下に置くことで、安藤氏が足利氏より獲得している地頭領の代官職および、蝦夷沙汰職代官の名誉と大きな利権を(間接的に)手に入れることが出来るというものである。

 

ところが、安藤政季は、安藤宗家の安藤康季・義季父子の死を伝え聞くと、南部の支配から逃れ、安藤氏再興を祈して、1454年、蠣崎蔵人など少数の重臣を連れて密かに田名部(宇曽利)を脱出、対岸の夷島へ渡った。「安藤氏 下国家四百年ものがたり」(森山嘉蔵著2006年、無明舎出版)によると、夷島の沿岸部約十カ所に館を構えて守っていた、かねて安藤氏由縁の守護豪族に安藤宗家の継承を宣言する。そして、夷島の支配拠点を調えて、対立するアイヌなどへ備えることになった。

 

ところで、まえに「鎌倉時代後期から室町時代には、安藤氏の中に、南下し秋田郡に拠った一族があり、「上国家」を称した。』と書いたが、それは、応永初期(1400年頃)のことで、夷島(渡島半島)でアイヌの反乱(度々起きていた)を鎮圧した安藤氏の一族、下国家が、その功績により秋田湊一帯及び夷島日本海側の支配権を室町幕府から委ねられ、湊家=上国家を興したとしている。

つまり、下国家が北海道に逃れる前に、安藤氏の版図が拡大した時期に、すでに安藤氏の一部が秋田地方に入っていたと言うのである。また、「安藤氏 下国家四百年ものがたり」(森山嘉蔵著)によると、当時、出羽国においては群雄割拠の騒乱状態にあり、手を焼いた時の室町幕府が十三湊安藤氏の一族、安藤鹿季に出羽を治めるよう命じた。安藤鹿季は二百騎を連れて小鹿島に、あるいは雄物川河口、又は土崎湊に拠点を築いて上国湊安藤氏を名乗ったというが、上述の「秋田『安東氏』研究ノート」(渋谷鉄五郎)によると、其れ以前に安藤氏の気配は小鹿島やその周辺にあり、鹿季が拠点とした場所もはっきりしないらしい。いずれにしても上国家の氏祖は鹿季となっており、このころ、南部の勢力の攻勢が激しく、孫惟季の代になっても止まなかった。

 

「秋田『安東氏』研究ノート」には、例の『市浦村史」から取ったらしい小鹿島を中心に深浦から雄物川河口までの地図を引用して場所を特定しようとしたり、著者の故郷である土崎に対するやや過剰な思い入れなどにより、冷静さを欠いているきらいがある。結局、安藤鹿季が土崎湊安藤氏を開いたということだけは、事実らしい。

この上国湊安藤氏が土崎湊に拠点を置いたのはいつ頃のことか分からないが、のちに、男鹿半島の付け根、水戸口付近の脇本という小高い丘に大きな城を構えて居たのは、戦国時代の名城として城跡が残っていることをみれば、平地の海辺で守りにくい土崎に長くいたとは考えにくい。

 

ともかく、南部の攻勢に手を焼いた鹿季、そしてその孫、惟季は、十三湊安藤氏の惣領をつなぎ、いまは夷島に逃れている安藤政季に書状を送り、出羽に来て宿敵南部と戦い恨みを晴らそうではないかと誘った。(「安藤氏 下国家四百年ものがたり」)

蝦夷にいて、南部と渡り合おうにも直接海路で軍勢を運ぶのは不利である。すでに秋田で南部と戦っている一族といっしょに陸路南部へ押し上げれば勝機がないわけではない。と、考えたかもしれない。

 

安藤政季は、自らの重臣(代表的な人物、蠣崎蔵人、武田信宏、河野政通、相原政胤、いずれも後に、蝦夷で大成)にはかり、出羽移住を決断するが、その時事件が起こる。

夷島におけるアイヌの反乱、コシャマインの戦い(1457年)である。(二百年後に書かれた文献にあるという。)

 

アイヌは、鉄を持たない民であった。鉄器を手に入れるには倭人と取引をしなければならならない。

僕が小学生ぐらいのときに、鉛筆など細木を削る道具をマキリといった。二つ折りの刃渡り10センチほどの小刀で、今の言葉でいえばナイフである。

マキリがアイヌ語だったことは今回初めて知った。(ただし、語源は日本語らしい)アイヌ語のマキリは、もう少し用途が広く「短刀」を意味するようだ。

ある時、アイヌの青年が、今の函館付近にあった倭人の鍛冶屋に、このマキリを買いに来た。安いの高いの品質がどうのと言い合っている内に、倭人がこのマキリを使ってアイヌの青年を刺し殺してしまうという事件が起こる。

この殺人事件の後、首領コシャマインを中心にアイヌが団結し、1457年5月に、両者の間にくすぶっていた敵対関係があらわになり、アイヌコシャマインを首領に、安藤氏および室町幕府の軍勢と戦争状態に入る。

胆振鵡川から後志の余市までの広い範囲で戦闘が行われ、事件の現場である志濃里に結集したアイヌ軍は小林良景の館を攻め落とした。アイヌ軍はさらに進撃を続け、和人の拠点である花沢と茂別を除く道南十二館の内十までを落としたものの、1458年(長禄2年)に花沢館主蠣崎季繁(安藤家の重臣上ノ国守護職)によって派遣された家臣武田信広によって七重浜コシャマイン父子が弓で射殺されるとアイヌ軍は崩壊した。

アイヌと和人の抗争はこの後も1世紀にわたって続いたが、最終的には武田信広を中心にした和人側が支配権を得た。しかし信広の子孫により松前藩が成った後(安藤氏の痕跡はこのような形で残った)もアイヌの大規模な蜂起は起こっている。

 

この騒動が一段落したのを見て、安藤政季は、出羽転住を決め、軍勢を連れて、出羽の国、小鹿島へ上陸する。(政季の転出はこの一年前に行われたという記録もあるらしい。)

 

 

男鹿半島の先端部分には噴火口のあとがいくつもあり、ここは地下からマグマが噴出して日本海の沿岸にできた島なのだということが分かる。その後、北の米代川から流れ下った砂が、海流の関係なのだろう、島と陸地の間に堆積し長い砂州でつながることになった。一方、南側は雄物川からのびた砂州が、海流が弱く完全にはつながらなかったため、わずかな開口部をもって島と陸地の間の海が残った。そこへ河川が流入してできたのが、広大な汽水湖八郎潟で、戦後悪化していた食糧事情解決のためにこれを干拓して農地にするまでは、琵琶湖に次ぐ我が国第二の大きさを誇る湖だった。

 

昔、このあたりを小鹿島といった。

この小鹿島から『後三年の役』に参戦した豪族がいたことは前に書いたとおりで、早くからここを拠点にした者がいた。

おそらく、雄物川河口から八郎潟の汽水域、小鹿島にかけての領域に拠点を置いていた上国家に対して、安藤政季は、それより北、南部と手を組んでいた葛西秀清が盤踞する地域を狙った。北は深浦から白神山地米代川河口、八郎潟にかけて、河北千町(河北郡の千町歩という意味か?)と言われる広大で豊かな土地である。

米代川河口から十キロほど入ったところの支流、檜山川を遡上すると標高百五十メートルほどの小高い丘があらわれる。

安藤政季はここ桧山を拠点と決めた。

このころから、理由はよく分かっていないらしいが、政季は、安藤を安東とあらためたという。

 

「安東氏 下国家四百年ものがたり」によると、

この安東政季は、毀誉褒貶の多い人物で、葛西秀清との死闘のさ中、冬の白神山地を越えて、南部に奪われた氏祖の地、藤崎奪還を目指して同族を攻撃する無理をしたり(桧山に敗退)、部下を理由もなく処刑するなど安東氏棟梁としての「信」を問われる行動があり、ついには白神山地を流れ下る藤琴川が米代川と合流する辺りで家臣の長木大和守の謀反にあって倒れる。

あとを継いだのは、嫡男、安東忠季である。それから七年の戦いを経て、葛西秀清を滅ぼし、桧山の霧山に城郭などを築いて城としての形を整えはじめる。世は戦国時代の始めであり、日本中が血で血を洗う国盗り物語で溢れていた。そうした中、忠季は、河北千町という広大な領地を治めるようになったのである。こうして、領地が安定したので、桧山安東家の菩提寺として1504年頃、日照山国清寺(いまは廃寺、その時期は明らかでない)を建立している。

 

その後、下国桧山家四代は、尋季の嫡男、舜季(きよすえ)が継いでいる。ここに、湊上国安東鹿季九代の孫堯季の娘が嫁いできたとの記録がある。これは、時代を経るに従って、桧山家の勢力が小鹿島付近で、上国湊家の所領を侵すなど小競り合いがあった状態を解消し、両家融和を図るために取られた措置であった、と考えられている。

舜季は、蝦夷地で起きた紛争を解決し、松前守護職である蠣崎氏を臣下として、この地の支配権を間接的ながら確立している。蝦夷地の統御態勢を固めた舜季は、1553年桧山城で没する。

 舜季のあと継いだのは、嫡男で、その時十五才の愛季(ちかすえ)であった。

 

その頃、一方の湊安東堯季は、足利将軍の御扶持衆で、左衛門佐に任官する国人大名であった。(中央政権に一目置かれる存在?)堯季は、足利幕府管領の細川家から数多い奥羽の諸将のうち、七人だけの「謹上書衆」(書状の最初に「謹上」を付ける礼儀)に遇されてもいた。堯季には嫡子がなく、下国桧山家から養子として愛季の弟を迎えている。

 

安東愛季は、戦国の世も最盛の頃に、桧山屋形を継いだことになる。

継承して三年後の弘治二年(1556年)、愛季は海に乗り出すことにして、まず手始めに、家臣の清水治郎兵衞に命じて能代の湊づくり、町づくりに手をつける。能代の湊は米代川の河口にあったものと思われるが、一定程度の大きさの船が寄港するには、おそらく浚渫工事が必要だっただろう。

 

そして、能代湊の整備を終えると日本海に進出した。庄内の「大宝寺屋形」の武藤氏の一族、砂越入道也息軒の娘を正室に迎え、永禄五年(1562)には也息軒を通して、越後の上杉謙信と親交した。また、越前の守護大名朝倉義景にも使者を出し、日本海交易の道筋を付ける。このことにより、小鹿島、能代沖を航海する庄内、越後、越前の商船の安全と海上の交通交易を水軍力を持って保障するようになり、土崎湊、能代湊に商船の出入りが頻繁になったのである。

 

材を蓄え戦力の充実を図った愛季が、次に企てたのは領土を拡張することである。

桧山から見て北東の米代川中流域から上流域にかけて拡がる「比内千町」といわれる沃野、さらには米代川、長木川の秋田杉、そして多様な鉱物資源を産出する北部比内地方がある。それを手に入れるにはここを支配している比内郡主、浅利則祐を排除する必要がある。

安東愛季は、浅利則祐と不仲で領主の座を奪おうと考えていた弟の勝頼を手懐け、永禄十年、勝頼の手引きで、則祐を襲った。この攻撃で、則祐を自害に追い込むと、浅利家の当主に勝頼を据え、次いで臣下にした。こうして、愛季は比内郡の統括権を手に入れ、事実上この地域(大館を中心とする)を桧山安東家の領有としたのである。 

 

愛季が次ぎに目指したのが、比内郡の東に隣接する鹿角郡攻略である。ここは、南部領であった。先祖以来、執拗に南部氏の攻撃を受けてきた安東氏にようやく訪れた復讐の機会である。

愛季は、比内郡扇田城(大館の南)に入って鹿角攻めの戦略を構築しはじめる。まず、鹿角郡内の地侍土豪に浸透し、密かに反南部氏の同盟を結ばせる。さらに、比内の浅利勢、阿仁地方の嘉成右馬守勢と図って、南部領侵攻の準備を調える。

そうして永禄九年(1566年)八月、鹿角郡境の巻山峠を越えたところに、鹿角の芝内勢が合流、出羽の大軍が南部領になだれ込んだ。

 

南部領を守備する鹿角郡の各城館勢の救援に、三戸南部晴政岩手郡内の国人領主に出陣の檄を飛ばす。激しい攻防合戦の中で、南部方は石鳥谷城、長峰城が落城、ようやく残った長牛城に立てこもり、ここで越年した。

年明けの永禄十年二月、愛季が率いる桧山軍六千の大軍は、積雪を侵して長牛城を攻撃。これを見た南部晴政は一族一門の南部北氏、南部東氏などのすべてを動員し、大援軍を繰り出して反抗する。それを見た、安東勢は直ちに全軍の兵を引いた。この素早い対応も戦術の内であった。

こうして、この年の十月、三度目の攻撃によって、ついに長牛城を陥落させ、鎌倉末期・南北朝期以来の南部領鹿角郡を安東領とした。これによって愛季は、先祖康季の屈辱を晴らし、戦国武将として近隣にその武威を示したのである。

大南部の面目を傷つけられた南部晴政は、翌永禄十一年三月、継嗣の田子信直、その父で剛勇の誉れ高い石川高信、一族の勇将九戸政実を副将とし、南部の総力を挙げた一大軍勢を整えて鹿角に攻め入った。この大軍を前にしては、安東勢力に荷担した鹿角の土豪地侍も防戦のしようも無く、次から次へと降伏し、鹿角郡は一年にして取り戻されたのである。

せっかく占拠した鹿角郡を一年で取り戻されたとはいえ、三度にわたっての永禄の鹿角合戦こそ、北奥の雌雄と目される糠部の南部晴政、出羽安東愛季が、一族の面目をかけての大激戦であった。

 

ところで、戦国武将として評価されるには朝廷から下されるそれなりの官位が重要であったが、京都での公家工作は、室町時代以来「京都後扶持衆」である湊安東家の任務であった。「言継卿記」(戦国期公家研究の重要資料)の山科言継は、戦乱で凋落している朝廷のために、地方武将からの献上品の進貢に働き、その代償として地方の人たちの欲しがる官位を与えることに走り回っていた公家である。

永禄十二年、愛季は浪岡北畠家の権威を借りて、家臣の南部弥左衛門を上洛させ、山科言継に近づけさせた。こうして、権威の中心である京都で、北奥に位置する桧山屋形安東愛季の名が公家の間に知られていった。

 

京都での愛季の評判は湊家の家臣に大きな動揺を与えずにおかなかった。また愛季の兄弟がふたりも続いて湊家の当主の座(養子)についていることも不安要素であった。

このような事情で、湊家の危殆を感じてきた家臣の一部が、永禄十三年、豊島城主の畠山刑部将補重村(畠山重忠の末裔)を先方にして、当主茂季(愛季の実弟)への謀反を起こした。

この報を受けた愛季は、急遽して豊島城の畠山重村を攻めた。桧山精兵の襲撃に一蹴された重村は、妻の実家である由利郡の仁賀保氏を頼って逃げ込んだ。湊家の桧山攻撃抑制もあって、愛季は、弟でもある湊家当主の茂季を豊島城に移して、南方面からの攻撃の守備とし、自らが湊城にはいって湊安東家の実権を掌握した。桧山安東氏が湊安東家を吸収する形での統一ということであった。

 

元亀四年(1572年)七月十九日、織田信長は自ら将軍位に付けた十五代足利義昭を京都から追放した。天下の政権は名実ともに信長の掌中に握られようとしていた。全国の武将は、いまや信長の一足一投から目が離せない時代になっていた。(元亀四年七月天正改元

天正二年、愛季は北方産の駿馬と弟鷹(だい、大鷹の雌)を献上した。日本海は出羽と都を繋ぎ、情報伝達と物品運搬の道でもあった。使者に立つのは、愛季の外交役南部弥左衛門である。

その二年後の天正四年、「去々年弟鷹十聯、同去年ニ居到来、誠ニ御遼遠ノ懇志悦斜ナラス候」とあり、さらに添え書きに「御太刀一腰紀新太夫相送り候」とある。信長の満足した感情の表れた返書と、名刀紀新太夫を送られた愛季は、丁寧な御礼書きと北の梅の珍品である上等な海獺の皮を十枚送り届けている。天守閣を備えた居城の安土城を琵琶湖畔に築造して、天下布武を自認している覇者信長への返書は、「去々年御鷹師サシ下サレソノ意ニ及候トコロ御祝着ノ由、今度御書ノ過分に預リ、忝存ジ候。殊ニ太刀紀新太夫之ヲ給リ、末代マデ重宝致スベク候、ナオ羽柴筑前守上聞ニ達スベク候」とある。

つまり、安東愛季は、織田信長と昵懇の仲になっていた。

 

(続く)

 

 

 

秋田空港は、昭和三十六年開港のときは、雄物川河口の海岸にあって、僕は一度降りたことがあったが、滑走路が短い上に、日本海からの強風の影響を受けやすかった。それで、1981年(昭和五十六年)、秋田市の中心から南東二十キロほど離れた山の中を切り抜いて新しくつくった。その少し北に雄物川の支流、岩見川が西に流れている。その川がつくったであろう北の河岸段丘に豊島城があった。いまは宅地の中の空き地で、痕跡は見られないが、戦国時代によくあった土塁をまわした典型的な山城であった。ここから雄物川を南東に遡上すれば、やがて大曲・横手盆地が拡がっている。角館の戸沢盛安や平鹿郡小野寺領、さらにその背後に南部の勢力が控える地域である。

湊上国安東氏は、雄物川河口の土崎湊や小鹿島の脇本城などの拠点を守備する前線として、今の秋田市南東二十キロのここに城を築いた。豊島城である。

この城は、後に安東氏の命運に関わる事件の舞台になった。

 

 

ところで、愛季は、織田信長の後押しもあって、戦国の世に勇猛の名声を示すことになっていく。

天正五年、愛季は、朝廷から「従五位下」の官位を贈られた。先祖に長髄彦という天皇家に反抗した者がいたのは承知の上であった。織田信長の配慮である。明らかに、信長に気に入られたのだ。

信長公記天正七年の条に、奥羽の諸将から続々と献上品が贈られていると記述があるが、それらの使者の接待役を愛季家臣南部宮内少輔がつとめたとあるらしい。翌天正八年(1582年)愛季は、「従五位上侍従」に任ぜられた。

こうしたなか、信長が、家臣にならないかと誘ったことがあった。愛季は、これまで我が家は、他家に仕えたことがない、といってことわったという。信長は、苦笑して済ましたらしい。

 

同じ頃、津軽との接触があった。

元亀二年(1571年)南部氏の一角を担っていた津軽鼻和の大浦為信が、南部氏への反旗を翻した。

石川城(弘前近郊)を襲い、南部高信(津軽総代官)を殺害し、津軽独立を宣言する。ついで、和徳城を落城させ、翌年三戸南部の牙城である平賀郡の大光寺城を攻めたが、これに苦戦していた。

南部氏を攻めている大浦勢に対して、愛季は、天正三年、鹿角の地侍大湯五兵衛昌光に為信への加勢を命じた。当時貴重な鉄砲隊まで派遣するという力の入れようだった。

ところが、南の出羽檜山安東氏の動きを警戒していた大浦為信は、庄内の大宝寺義氏と密約を取り交わし、背後から愛季の津軽侵攻を牽制しようとした。そうした中、天正七年七月、為信は、安東氏と縁の深い浪岡御所(藤崎の北)の公家武将北畠顕村を襲った。不意を突かれ、抵抗する間もなく浪岡は落ちて、北畠顕村とその正室(愛季の娘)は檜山に逃れた。

庄内勢との対応に追われた愛季は、その後、津軽接触したが、押し返され、そのまま檜山の北進の意思は停止した。

 

この年、豊島城を守備していた愛季の弟、茂季(湊安東氏に養子にはいった)が病没した。茂季には通季という嫡男がいて、本来なら湊安東氏を継ぐべき存在だが、愛季は、自分の嫡男、業季を湊城主に据え、湊家の所領を桧山に吸収してしまう。本城の檜山城主には、二男の実季をあて、自らは男鹿の脇本城に入って両家の指揮を執るようになった。通季にしてみれば、叔父のこの措置に対する不満があったが、直ちに何事か起きる気配はなかった。

 

天正九年(1581年)になって、俄に比内の浅利勝頼が反旗を翻した。大浦為信にそそのかされたものであった。ただちに愛季自ら出陣し、勝頼は大館城を明け渡して和睦に応じた。

同じ年、庄内の大宝寺氏が由利郡の討伐を企てて、出陣するにあたり、大浦為信に背後から安東氏を牽制するよう出羽攻めを依頼する内容の手紙を出している。

由利郡は、安東氏と大宝寺領にはさまれた地域で、由利十二頭という豪族たちがいて、離合集散を繰り返していた。安東氏としてはこの緩衝地帯を失うわけに行かない。この由利攻めを聞きつけた蝦夷地の蠣崎季広守護職嫡男慶広(これが後に分かるが、なかなかのくせ者)が援軍を率いて愛季陣営に参加してきた。

戦は一進一退、決着がつかないまま過ぎた。愛季は、天下の情勢を俯瞰して、力のある武将と連合することを考え、これまでまったく縁のなかった、山形の最上義光に、ともに庄内の大宝寺を攻めることを提案する書状を送った。

これに対して、ようやく天正十一年春、最上義光から庄内を攻撃する旨の返書が来るが、その前に、大宝寺勢が、由利郡に攻め込んで、由利衆がこれを撃退する。すかさず安東勢の主力が由利郡になだれこむと、最上勢がこれに応え、さらに仙北郡の小野寺勢も加わり、大宝寺義氏を攻め立てた。このとき突然、大宝寺陣営に内乱が起きる。義氏重臣の前森蔵人が、義氏居城尾浦城を包囲したのである。突然のことで、義氏もなすすべなく、自害して果てる。このとき、愛季は、勢いのあまり、深く郡境を越えて酒田まで攻め込んでいる。

 

このとき、比内の浅利勝頼の動きが怪しいとの情報が入ったため、愛季は急ぎ檜山に戻った。愛季の優れたところは、四方に間者を放って、情報を集めていた形跡があり、そのあたりが並の戦国大名と違ったところとの評価がある。

天正十一年三月一夕、愛季は、勝頼を檜山に招いて酒宴を行った。座は和気藹々と進んだが、突然愛季の家臣が勝頼の首をはねる。一緒に居た嫡男は、慌てて津軽に逃げ込んだ。

庄内屋形の大宝寺義氏を自刃に追い込んだ愛季の名は、出羽南部の庄内にも轟いた。一方、北奥羽の雄、南部信直は、大浦為信による津軽独立、一族の九戸政実による宗家無視(南部氏にはこの類の内紛が絶えなかった)の動きなど南部氏衰退とみられはじめた。これに敏感に反応した陸奥の斯波一族や鹿角の毛馬内氏・花輪の地侍たちが愛季に近づいてきた。

「湊・檜山合戦覚書」という書物が残っているらしいが、そこには「・・・愛季公の時、南部領の内、斯波・雫石・鹿角・花輪伯耆守・毛馬内殿頭なり。これらを従え礼に来たり。仙北は淀川(大曲の北西部)を切り取り・・・」とあり、北奥の諸将は「斗星の北天にあるにさも似たり」と恐れ入っていたという。

 

年々歳々領土を拡大、武将をなびかせてきた愛季だが、天正十年、湊城主にしていた嫡男業季が十六才の若さで病没した。落胆している暇はない、すぐに二男の実季を跡目として湊城に配した。また、同年六月には京の本能寺で、愛季を厚遇していた織田信長が、明智光秀に討たれてしまった。これを山崎で討った羽柴秀吉から挨拶ともいうべき書状が届いている。

 

天正十五年(1587年)五月、角館城主の戸沢盛安が平鹿郡小野寺領の沼館を襲撃した。これは小野寺勢と最上勢が雄勝郡境の有家峠で合戦し、対峙している間隙をついたものであった。この動きがさらに近隣諸郷の六郷・本堂・前田などの国人小領主に独立の野心を抱かせて、出羽仙北は騒然とした様相を呈するようになった。同年、八月、戸沢盛安の動きに抑圧を加えるため、愛季は仙北の淀川に出陣した。盛安は刈和野に陣を構え、この地で三日の間、激烈な戦闘が繰り広げられた。世に言う「唐松野の合戦」である。両軍とも大きな損傷を負った。

この大合戦のさなかに愛季は発病した。密かに脇本城に帰ったが、祈りもむなしくこの城で息を引き取った。剛勇を誇った一方で、絵画をたしなみ歌を詠むという戦国武将には珍しい優雅で心にゆとりある側面を見せた人生だった。享年四十九。

 

愛季のあとを継いで安東惣領家の当主になったのは嫡子、湊城主安東実季である。このときまだ弱冠十三才であった。

唐松野の陣を守っているさなか、秀吉の天下統一を前にした九州攻めのとき、「関東奥羽惣無事令」が発令された。秀吉が天下人として私戦をやめさせる命令を出したのだ。戦国の世が終わろうとしていた。

この令は最上義光を通して奥羽諸将に伝えられたが、まだ徹底しなかった。そして、愛季の死が明らかになるとともに安東実季のまわりがざわめいてくる。

雪のために陣を解いて角館に帰っていた戸沢盛安勢が、愛季逝去の情報を得て、再び刈和野方面へ出陣してきた。明確に、「関東奥羽惣無事令」違反である。しかし、この最中に、秀吉の令が行き渡り、戸沢勢をはじめとする仙北勢が兵を引き上げた。

ところが、この戦場に近い豊島城にいる安東通季の動きが怪しいとみて、実季陣営は動けなかった。通季は、実季のいとこにあたり、本来であれば、父のあとを継いで湊安東家の棟梁になるはずだったが、叔父の愛季が強引に湊家を檜山安東家に吸収合併してしまった。むろん、これを通季およびその家臣は快く思っていなかった。裏で、角館の戸田盛安が通季と通じていて実季討伐を画策していたことが分かると、急ぎ湊城に帰るが、そこを通季の家臣らが包囲した。

実季に取っては、十四才の初戦であった。

湊城は通季らに奪われ、実季は、脇本城に後退した。しかし、脇本城は、まわりに旧湊家の勢力が多く、守りに十分ではないため、実季とその主力勢は、阿仁一帯など北側に味方が多い檜山に移り、ここで籠城することにした。南側は、羽後街道の潟渡(いまの鹿渡)と鵜川に砦を築いて守った。

 

通季と戸沢盛安が集めた軍勢は、南部信直や鹿角の大湯勢、毛馬内勢、五百を含む寄せ集めとは言え、檜山勢の十倍はあった。

実季は、なりふり構わず救援を求め、ようやく由利衆が応じて包囲網の背後から通季勢に襲いかかった。同時に、秀吉政権の重鎮、越後の上杉景勝が実季救援の姿勢に傾くという情報が拡散されると、もともと連携の薄い通季勢の小領主たちは、雪崩を打って、解散、帰郷してしまった。これらの状況を見ていた通季の弟が実季方に寝返る。これまでとみた主軸の戸沢盛安はさっさと陣をとき角館に帰還してしまう。通季は、檜山城外から潟渡と鵜川を経由して八郎潟を逃げたが、実季の家臣に追われ、ついには海路をたどって南部信直のもとに走って、この騒動は終わった。

 

この内紛は、太閤秀吉の通達違反であり、秀吉から実季に出頭命令が下って、所領召し上げ、存亡の危機が迫る。実季は、上杉景勝の縁で、石田三成に使者を送り、取りなしを依頼した。ちょうどこの頃、米沢の伊達政宗会津蘆名義広の争い、庄内における最上義光が抱える紛争があり、それに比較して、安東実季の内紛はものが小さいと判断され、豊臣政権の上杉・石田ラインの斡旋により、秋田本領安堵をされたのであった。

この上杉・石田ラインは、徳川政権になった世では、仇と成すのであるが・・・・・・。

実季は、これを機会として土崎湊を臨む高台に城を築いてそこを本拠とする。 この後、豊臣政権は実季に南部の一角、九戸討伐を命じ(これは短期間に終わる)、朝鮮出兵の間に名護屋城守備を命じたりしているが、これが終わり、檜山に帰還すると、浅利との確執が再燃する。

 

名護屋出陣の費用負担分に浅利の未払い分が見つかり、トラブルになった。浅利は湊家の支配下から独立を狙って中央工作を続けていたのだが、これもその一環であったと思われる。中央から仲裁が入り、不足分を実季が負担することで、いったんは収まった。ところが、津軽の大浦為信に後押しされていた頼平は、この問題を蒸し返して豊臣政権に訴え出た。檜山側に家臣扱されたくないというので、争いは絶えなく、何度も交戦したが、この騒ぎが豊臣中央政権の政治問題化することになってしまう。双方が呼ばれて、吟味された結果、浅利の未払い分が確認され、それにもかかわらず訴え出るとは不届き至極、と言う裁定がでる。ところが不思議なことに、この裁定が出る前に浅利頼平が、大阪城内で急死してしまうのである。

これにより、永年にわたる係争の地であった比内(後の北秋田郡)の領有が確定され、比内を地盤とする浅利氏・嘉成氏の領主権は否定された。

 

そして秋田(南秋田郡)・檜山・比内のいわゆる秋田下三郡に加え、豊島郡(河辺郡)を有する大名として、所領は減らされたが安堵の朱印状は秀吉の手から直接渡された。こうして大館城(大館市)・脇本城(男鹿市)・馬場目城(五城目町)などの要地に功臣・一族を配して、比較的安定した領国支配を築くことになった。

だが同時期に、松前の蠣崎慶広が秀吉に謁見していて、その巧みな工作により、鎌倉以来安東家の被官身分として松前守護職を任じている蠣崎氏(慶長四年=1599年、松前氏と改姓)に蝦夷ヶ島主を認める朱印状が発行され、安東家は四百年間維持してきた権利を誇りとともに取り上げられてしまった。

 

時代の変化を感じ取ったのか、実季は、太閤の奥州仕置後、安東の名をあらためて、古い官職名である秋田城介を号して(後に正式に付与される)秋田氏を名乗ることになった。

 

こうして、遠く11世紀に起源を持つ安倍氏を氏祖とする「安東氏」は「秋田」氏となって、歴史から消えていったのである。僕にとっての「安東氏という謎」もとけて、長かった謎解きの旅も終わった。

 

 

TVで司馬遼太郎の「北のまほろば」のドキュメンタリーを見ていたときに、大学時代、国史専攻の井手有記君からきいた「津軽といえば安東だろう」と言う言葉を思い出し、そういえば、安東氏は十三湊で消えたあとどうなったんだろうと思って、その謎を探しに出かけた旅だった。

 

結局、たどり着いたのは、なんと、僕の故郷だった。

井手君が謎だといったときは、そのことに、まったく気づいていなかった。

猿の惑星」という映画があったが、あれは、たどり着いた惑星にN.Yの「自由の女神」の残骸があったという結末だった。まるで、あの惑星は地球だったというどんでん返しと似て、僕にとっての半世紀前の「安東氏という謎」の答えは、意外にも僕自身の足下にあったのだ。

 

檜山は、僕の生まれたところから十キロも離れていない。

昔から古い城跡(と言われる山)はあったが、その主が安東氏とは知らなかった。いまになって思えば、誰も教えてくれなかったのが不思議である。高校時代、たぶん多宝院というお寺だったのだろうと思うが、その住職の子息に一年先輩がいて、その友人だった先輩に誘われて訪ねたことがあった。訪ねることを母に言ったら、あの寺の廊下は「うぐいす張り」といって、歩くと鳥の鳴き声がするはずだと教えてくれた。「忍びのもの」対策である。古刹という趣で、半日居ても厭きなかったという記憶が残っている。

 

なぜ、檜山の城の主が安東氏であったことを知らなかったのか?

城の歴史さえ、誰も教えてくれなかった。何故なのか?

もちろん、僕の子供の頃は、戦後間もない頃で資料も乏しく、さほど研究が進んでいなかったのだろう。それにしても、我が生まれ故郷にとって、檜山の過去は、歴史の彼方に消え去った幻という印象であった。

 

そのもっとも大きな理由は、関ヶ原のあと、常陸の佐竹氏が秋田氏の所領にに移封され、おそらく玉突きのようにして、常陸の宍戸に転封されたことではないか。「国盗り物語」の時代の最後部を経験した実季にとって、これはかなり納得のいかない措置だったに違いない。しかし、もはや家康に異を唱えられる時代ではなかった。

宍戸に出立するとき同道した家臣はわずか百名ばかりであったという。残された秋田をはじめ県北部の家臣たちはほとんどが、帰農したのだろうという研究がある。時代が変化したと同時にやって来た新しい領主は、古い歴史に対して、自分の物語を上書きすることをはじめなければならない。

檜山には、佐竹氏の一族が入り、戦国の世の記憶は過去へ押しやられた。かくて、江戸期の無風時代が檜山の歴史をますます風化させたのかもしれない。

(ただし、佐竹氏の歴史などもトンと記憶がない)

 

戦国時代の風を色濃く残した性格の実季は、幕府への不満から、一時期遠い祖先の姓、伊駒を名乗ったり、戦国時代の気骨を示すことが多く、幕閣から突如として伊勢国朝熊(三重県伊勢市朝熊町)へ蟄居を命じられた。

不仲であった嫡男の俊季は、あらためて、陸奥三春(福島県三春市)五万五千石に移封され、母親が大御所秀忠の正室崇源院の従姉妹(織田信長の妹の家系)にあたることも幸いして家督継承が認められ、大名、秋田氏として以後幕末、明治までと同地で存続した。

秋田実季は、寛永7年以降約三十年にわたり、伊勢朝熊の永松寺草庵で、長すぎた蟄居生活をおくったのち、万治2年(1660年)、同地にて死去した。享年八十五。朝熊永松寺には、実季の用いた食器などの日用品が現在も残されているという。

 

ところで、前に取り上げた「東日流外三郡誌」だが、これを書いたのは和田喜八郎の先祖で、和田長三郎吉次と三春藩主、秋田孝季という触れ込みであった。この秋田孝季は実季の子孫に当たる実在の人物で、この殿様が、先祖の家系図を調べ上げて幕府へ報告したのは事実である。『秋田家系図』といわれるものを編纂した人である。もっとも、和田長三郎吉次と共著というのはいかにも無理があり、和田喜八郎は、のちに秋田孝季とは土崎在住の別人だといっていたらしい。和田は、このあたりの事情にも通じていたというのは驚きである。

 

一方、佐竹氏は、土崎湊近くにあった秋田氏の居城には入らず、少し内陸に入った神明山(標高四十メートル)に久保田城を整備して居城とした。仙北地方は、角館の戸沢盛安が新庄に移封されたため、角館には横手とともに佐竹の一族が配される事になった。

また、深浦から須郷崎にかけての地域は昔から安東領であったが、そのとき比内から大館にかけての地域を大浦(津軽)為信が支配していたので、佐竹はこの土地を大浦との間で交換することにした。今の秋田―青森県境の通りになったのだ。

このことも僕は知らなかった。

僕の家族は昔から青森県境を越えて深浦辺りまでよくいっていた。海水浴やキャンプなどである。須郷崎とは白神山地の山脈が海へ落ち込む髙地の延長にあって、ここを越えるのは多少難儀である。それにもかかわらず、この五能線沿線は能代から深浦辺りまでどこか親和性を感じる土地柄であった。大間越という集落(青森県)から五能線で通っていた高校の同級生もいた。

 

ところで、秋田の竿灯祭りは有名だが、秋田市民の内、一部だろうが、あれは佐竹が持ち込んだものだからというので、そっぽを向いているものがいるという。

僕は、佐竹氏が移封されて後、秋田でどんな政治を行ったのか、噂すら聞いたことがなかった。木に竹を接いだようなもので、殿様に違いないが、典型的他国者と感じられながら江戸期を過ごしたのではないか?平賀源内が鉱山開発のことを佐竹の殿様に講じるために久保田城を尋ねたというエピソードが記憶にあるだけで、佐竹に関して知っていることは、ほぼない。

秋田の人は、佐竹家由縁の人をのぞけば、多かれ少なかれそんな調子ではないかと想像している。

 

昔、僕の家は、中村筑前守十八代の末裔だといっていた。十八代とは、佐竹氏移封より遥か以前のことになる。安東氏または、同時代の豪族の家臣だったのか。従兄弟が調べてみたら、仕事は右筆だったらしいということだった。

誰に聞いたのか記憶は定かではないが、明治十七年、大館近傍生まれの祖父は次男坊で、長男である十八代目が、明治新政府の呼び掛けに応じたのか、たぶん、祖父の成人前に夷島(渡島半島)の七重浜に移住することになった。偶然かもしれないが、安東氏由縁の土地である。長持ちに、刀や槍や武具がたくさん入っていて、それをごっそり持っていったらしい。次男坊は置き去りにされた。

その祖父が亡くなったとき、七重浜から十九代を継いだらしい中村筑前守憲忠がやってきて、神式から仏式に改宗した叔父の葬式に戸惑っているのを大学生の僕がみていたのを思い出す。

 

「安東氏 下国家四百年ものがたり」を書いた森山嘉蔵氏(昭和二年生まれ)は、深浦で、長年校長先生をやった郷土史家である。

この本は、国史学の研究論文とは違い、直接古文書などの資料にあたってはいるが、自治体のまとめた郷土史などを丹念に読み込んで、安東氏の全貌を浮きぼりにしようとした労作で、僕はこの原稿を書く上で、ほとんどの部分、この本を参照した。

 

その森山氏にしても、なんと、初めは『安藤氏という謎』だったようだ。

本の「あとがき」で安東氏研究の動機について、興味深い記述をしている。

 

「深浦・吾妻沢の六所の森に三基の板碑が建立されている。

小学生の頃から目にしている石碑だが、その古い苔むした石碑に『康永四年乙酉二月二十九日・・・』の紀年号の彫られているということを、『深浦町史』(昭和九年発刊)で知ったのは戦時中であった。この三基は深浦町(旧大戸瀬村)関集落・折曽乃関の板碑四十二基と同じ鎌倉後期から室町期にたてられた板碑で、その頃、津軽一帯を支配していた『安藤氏』一族などの供養塔であることを知ったのは、『西津軽郡史』編纂に参画していた昭和二十七年頃と思っている。

初めて耳にした『安藤氏』であったが、日常的な繁忙の中に忘れ去っていた。もっとも、『西津軽郡史』(昭和二十九年発刊)所載大山梓氏の安藤氏論述は一読したがよく分からなかった。・・・・・・」

 

康永四年といえば、1346年、鎌倉幕府が倒れて、南北朝時代のことである。深浦の在所にこんな古い碑があったとは驚きだが、それが安藤氏一族のものであることを知ったのは戦後十年もたった頃で、この時はじめて「安藤氏」を耳にしたというのである。

 

深浦は十三潟のかなり南にある古い湊だが、南北朝時代はまだ、十三湊安藤氏がここを支配していたであろう。その後、十五世紀半ばには葛西秀清が、この地を含む「河北千町」を支配していたが、1456年、南部氏に追われて蝦夷島に逃れていた安東氏下国家の政季と嫡子忠季が葛西秀清を破って桧山城を築いたときから、再び深浦に安藤氏が現れるのである。

そのことも含めて、安藤氏については知らなかったということなのだろう。

それ以降、この地方にも研究者がボチボチ増えてきて、森山氏もその仲間入りをすることになったが、いまでも、安東氏については確然としないものを感じると述懐している。

調べれば調べるほど謎は深くなるといった趣なのかもしれない。

 

十三湊の富山大学の発掘調査や戦国の世を駆け抜けた記録など、歴史の中に埋もれかかった『安東氏という謎』を掘り起こして、明らかにして行こうという人が増えていると森山さんは感じている。これからますます研究が進んで、安東氏のものがたりは輪郭があざやかになっていくに違いない。

 

そこで最後に提案がある。

僕はもう故郷には戻れない身(人工透析)になってしまったので、だれかに、戦国武将で、信長とも対等に渡り合った『安東愛季』の物語を語って、町おこしをしてもらいたい。簡潔にまとめたユーチューブがあったので、それを添付してこの稿を終わりにしよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

<iframe width="560" height="315" src="https://www.youtube.com/embed/yxVP6pTt_Bg?si=kGe-VsL4rT3Ca-02" title="YouTube video player" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; clipboard-write; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture; web-share" referrerpolicy="strict-origin-when-cross-origin" allowfullscreen></iframe>

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

津軽半島の西に十三湖という岩木川他数本の川が流れ込む汽水湖がある。昔、ここを拠点に北海道からオホーツク、沿海州にかけて交易で活躍した豪族「安東氏」がいたという。

だが、この「安東氏」、どこから現れたものか、また何故、忽然と消えたのか?

学生時代、国史専攻の友人が、研究テーマにすると言っていたので、覚えているが、この「安東氏」については、十三湊で繁栄した痕跡が途絶えたあとは、追いかけようもないと思って失念していた。

 

 

この間、TVをつけたら司馬遼太郎の「街道を行く」の新シリーズの中の「北のまほろば」(1994年1月取材旅行)をやっていた。

「街道を行く」は何年も前に全43巻を読んでいる。

この41巻目にあたる「北のまほろば」は、青森県を取り上げたもので、縄文時代の(本が書かれたのちに発見された三内丸山遺跡について番組は詳細を説明している)この辺りの人々の、主に狩猟採集で暮らす生活は豊かで、奈良朝の人々が大和を国の「まほろば」と呼んだものに匹敵する、いわば「北のまほろば」とも言うべき環境ではなかったかという話から始まって、この地方の歴史を下るのだが、TVをつけた時にはすでに中世に差し掛かっていた。

 

画面には、十三湊と蝦夷地、樺太沿海州が描かれた地図が出ている。

津軽半島の真ん中あたりに日本海に面した大きな汽水湖があって、それと海を隔てる細長い陸地に十三湊はある。

ここを本拠地に、オホーツク海を取り囲む、いわば環日本海とも言える地図の界域を交易の場にして活躍した有力豪族に安東氏がいた。番組では安東氏の盛衰を物語る。

 

ところが、この安東氏はある時から先、忽然と歴史の表舞台から消えてしまうのである。いつだったか、津波に襲われ、一夜にして滅んでしまったという噂を聞いたことがあったが、これはかなり後になって進んだ十三潟周辺の入念な発掘調査によって、根拠がないことがわかったらしい。と言うことまでは何故か覚えていた。

 

僕がこの安東氏について知ったのは、今から五十年以上前のことだった。

大学の同じ学科に井手有記という国史専攻の友人がいた。

入学したての頃、ある事情があっていち早く仲良くなった友人である。井手君は長崎県五島列島のある島で生まれ育った。多分中学生ぐらいの頃だろう高校教師をしていた母親が病死、それで両親とも失った彼は、兄弟三人、親戚を頼って九州の西から北海道の最北、紋別に移住するというまるで山田洋次の映画のような少年時代を経験していた。

隠れキリシタンの土地柄なのだろう、彼はカソリック教会が運営する学生寮で暮らしていた。

余談だが、面倒を見ていたのはカナダ人のエノー神父で、エノーさんは大学でフランス語を教えていて、僕らもその教室の学生だった。その後僕は就職した会社で秋田市から東京に転勤したが、しばらく経って、神父が東京の教会にも出入りしていると教えてくれる人がいたが、会えずじまいだった。

 

この井手君が、ある時、「津軽といえば安東だ。だが、この安東については、どこからやってきてどこへ消えたものか、さっぱりわかっていない。歴史の研究課題として、実に興味深い。」というのである。「北のまほろば」など影も形もないときである。おそらく自分でやってみようというつもりがあったのだろう。僕は津軽と言えば、この地を治めた十万石の津軽氏ぐらいしか思い浮かばなかったから、ほうそんなこともあるのかと、感心しているばかりだった。

 

井手君は、時代小説も好きだったようだ。ある時、自分が読んだばかりの「竜馬が行く」全五巻を持ってきて、「読んでみろよ、面白いぞ」と言っておいて行った。司馬遼太郎は、初めてだったが、読み出したらやめられない。三日間読み続け、終わってしまうのが惜しかった。余韻を味わっているうちに覚えた最後の一行はいまでも暗唱できる。

 

竜馬が京の宿で襲われ倒れた後、

「・・・この夜、京の天は雨気が満ち、星がない。しかし、時代は旋回している。若者はその歴史の扉をその手で押し、そして未来へ押しあけた。」というのである。

他にも何冊か持ってきてくれたが、この時まで、時代小説には、家で定期購読していた「オール読物」の中の短編をたまに読むだけで、あまり縁がなかったのだが、山本周五郎藤沢周平など何の抵抗もなく読み出したのもこの頃であった。

 

番組では、十三湊の後、話題は津軽藩がコメという南国の作物にこだわったために度々東北特有のケカチ(冷害)に襲われ困難を極めたことに変わった。安東氏の話題は変わったが、井手君の言っていたことを思い出したりして、その後安東氏はどうなったのか気になりだした。

 

「北のまほろば」では、安東氏の十三湊がどんなところだったかを次のように想像している。

 

十三湖の南は、砂浜である。七里長浜が、鰺ケ沢までつづく。帆船で航海する者の側からいえば、十三湖は湾口が小さく、なかがひろい。投錨地として魅力的だったはずである。またこの湊の支配者からみると、海をへだてて北海道や沿海州に近いという利点がある。近世以前の日本は、北方世界からみれば鉄器を産する国として印象づけられていた。もし彼の地に縫い針や刀剣などを運び、彼の地から海獣の毛皮や鷹の羽などを入れれば、利があるはずである。さらには中国の陶磁器などを輸入すれば、日本の中央に──贅沢品ながら──大いによろこばれる。

 

つまりは、北方での海上王国を築くことができるのではないか。げんに、往古、十三湊にはそういう勢力が存在していたらしい。ただし文献が乏しい。

わずかに鎌倉末期ごろのことか、この湊について、「夷船京船群集し」(『十三往来』)と、表現したり、また室町時代の文明年間(一四六九~八七)のものかと思われる『廻船式目』に、津軽の十三湊が、「三津七湊」の一つである、とする文献がある程度である。

 

日本史は他のアジア諸地域にくらべ記録が多い。しかし十三湊は、記録の上では、ほとんど沈黙してきた。名としては、平安末期にあらわれる。栄えたのは、十四世紀から十五世紀が中心で、室町末期に衰退したらしい。この海港を栄えさせた勢力の名は、安藤(安東)氏ということは、たしかなようである。安藤氏がたしかに存在したことは、間接的な文献によってわかっている。やがてこの豪族は内訌によって衰え、室町末期に成長してきた南部氏にほろぼされる。同時に、十三湊の繁栄も、おわる。繁栄がおわったというのは、継承すべき新興の南部氏が海事にうとかったという側面も、想像できそうである。」(「北のまほろば」「十三湖」)

 

つまり、「北のまほろば」によれば、安東氏についてはほとんど資料がなく、室町時代の終わりごろ内訌(つまり一族の内輪揉め)によって衰えたところを南部氏によって滅ぼされたということだった。

 

僕は、十三湖には、もう何十年も前になるが、特段の目的もなく車で行ったことがある。

細長い砂の道に、風よけなのか幅の狭い背丈ほどの板を並べた塀が続いており、その風雨にさらされて白骨のように痩せ細った板の間から、向こうの砂丘が透けて見えるのが、心細く最果ての地に来たという気にさせたものだった。

民謡「十三の砂山」は「十三の砂山 米ならよかろな 西の弁財衆には ただ 積ましょ」と歌っている。米などとれるところではないと嘆いているのだろう。

むろん、その砂の下にかつての繁栄の遺構が埋まっていることなど気づきもしなかった。

 

安東氏が室町末期に消滅したあとのことを「北のまほろば」では、

 

「それにしても、安藤氏の滅亡後、十三湖をすてた当時の海運従事者たちは、どこへ行ったのだろう。出羽の庄内か越前の敦賀にでも移ったのだろうか。」

と想像している。

むろん消滅したと言ってる以上安東氏についての記述はそこまでで、話題は変わってしまった。

 

安東氏の一族が移転したのは、「出羽の庄内か越前の敦賀」というのに何か根拠があったのだろうか?

 

司馬遼太郎が「北のまほろば」の取材旅行をしたのは1994年12月のことであった。あるいは、そこが日本海を往来する北前船の寄港地という関連を想像しただけのことだったかもしれない。

このことは、まだ、日本史の体系が個別地方の歴史を組み込んで編纂するには早すぎたと見えて(司馬遼太郎の耳に到達していなかったことがそれを物語る。)実は、このとき日本史としては、庄内でも敦賀でもなく、出羽の秋田に安東氏の裔が現れることを認知していなかったのであった。

 

 

その前に、そもそも安東氏はいつを起源として、何故十三湊を拠点としたのか? その出自は何処にあったのか?

それには、大和朝廷畿内を中心に国を統一しようとしていた時代における東北地方の様相を知る必要がある。

 

「北のまほろば」で司馬遼太郎は、東北地方、つまり「陸の奥」について次のように記述している。

 

「七世紀の大化改新で、それまで諸豪族の私有だった土地・人民が、国家のものになり、公地・公民になった。同時に全国にはじめて国郡の制が設けられた。  大和政権にとってほんのそばの大阪湾にうかぶ小さな淡路島が「淡路国」という一国とされる一方で、不均衡にも、いまの福島・宮城・岩手・青森という四県が、広大な山河をもちながら、わずか一国の名でよばれるようになった。陸奥の語感の重々しさはその広大さにも由来している。」(「北のまほろば」)

 

律令国家が出来上がる頃、瀬戸内に浮かぶ淡路島は一国と見なされたが、それに比して福島から先の「道の奥」と呼ばれた広い東北の地域は実態もよく分からないままに一国とされたのである。そこは蝦夷と呼ばれるまつろわない民やアイヌ、その他の民族もいたに違いない。要するに、存在は確かだが誰もそれを詳細に報告するものはいなかったのだ。

 

以下は、僕が調べたことで、「北のまほろば」が縄文時代の北東北なら、この地域のそれに続く歴史の開明期である。

おそらく最初の記録が現れる「日本書紀」によると、景行天皇の時、その在位中に北陸・東北地方に武内宿禰(たけうちのすくね)を派遣して、その土地の地形や地質、あるいはそこに住んでいる人びとの風俗や気質について、視察・調査させたとある。

景行天皇とは、大和武尊(ヤマトタケル)の父親とされる人物だから、神話の中にいる。

実在したなら考古学上、四世紀(300年代)である。この天皇は九州地方にいた熊襲・土蜘蛛といった抵抗勢力を征伐したというから武人であっただろう。

武内宿禰の報告は、「東北の辺境に日高見(ヒタカミ)国がある。その国の人びとは、男も女も髪を結い上げ、身体に入れ墨をし、人となりは勇敢である。すべて蝦夷(エミシ)という。土地(仙台平野と北上盆地)は肥大にして広大である。討伐してこれを取るべし」というものであった。

 

この時代区分で言うなら古墳時代にあったという日高見国については、存在したとすれば、少なくとも数百年の間、広大な地域で比較的豊かな暮らしをしている異質の人々がいたということになる。これは陸路をたどって得た見解であろう。

 

一方、日本海は、海が穏やかで、自然の良港も多く海路はおそらく先史時代から開けていたに違いない。

日本書紀」には、武内宿禰から約三百年後の斉明天皇(七世紀、女帝、蘇我氏全盛の時)の時代に、越国(こしのくに:いまの福井県敦賀市から山形県庄内地方の一部に相当する地域を領した)の阿倍比羅夫(あべのひらぶ)が日本海を北上し、東北遠征を行なったとの記述がある。

 「斉明天皇四年(658年)四月、越国守阿倍比羅夫が軍船百八十艘を率いてエミシを討つ。顎田(アギタ)・淳代(ヌシロ)二地方のエミシは、その船団を遠くから眺めただけで降伏してきた。そこで軍船を整え、顎田浦(アギタノウラに入港し、上陸した」。

この顎田・淳代は、おそらく土着の名で、のちに発音しやすくあぎたはあきた=秋田に、ぬしろはのしろ=野代に変えたものであろう。(野代はのちに、津波に襲われ、土地が野に変わったため、能く代わることを願って、表記を変えた)

この二つの土地はのちのち安東氏の謎と交錯することになるが、いまはまだ古代の歴史の中にある。

エミシは本来、争いごとは徹底した話し合いによって解決するという習慣をもった平和的な民であったから、首長のオガは、比羅夫の前で、誓って言った。

 「自分たちの弓矢は、食糧にするための動物を獲るためのものである。もし、その弓矢を用いて、あなた方に立ち向かったならば、アギタノウラの神(古四王神社に祭る海洋神で、古四王は古志王、高志王、越王に通じる)がおとがめになるでしょう。その清い心の誓いをもって、あなたのお仕えしている朝廷にわたくしどももお仕えしましょう」と。

 阿倍比羅夫は、オガの申し出を聞き入れた。そうして、彼に小乙上という官位を与え、ヌシロとツガルの二地方の郡領(こおりのみゃっこ)に任命した。

日本書紀には、その年の秋七月に、エミシ二百人あまりが朝廷に出向いて貢物をささげ、朝廷はエミシに位階と、旗・鼓・弓矢・鎧などを与えたと記されている。

その後、阿倍比羅夫は更に北上し、津軽半島から北海道の渡島半島にまで到達し、各地のエミシとの親睦をはかった。

 

ところで、「古四王(古志王)」神社は、新潟付近とその以北に数十社ある。古志とは、中国東北から黒龍江流域沿海州に住んでいたツングース族のことであり、古代、この民族が海を渡って、日本に移り住んでいたという。その者たちが築いていた古志国が飛鳥時代(七世紀初め)の国名にあり、越(こし)または高志ともいい、大化の改新時、名称は越国(こしのくに)に統一されたとある。

この越国のルーツとなった古志(ツングース族)の日本への移住者のことを粛慎(ミシハセ)と呼ぶが、日本書紀によると欽明天皇544年12月、佐渡島に渡来するミシハセ人のことが越から朝廷に報告されている。

 

阿倍比羅夫が水軍を率いて日本海を北上したとき、その沿岸の土地にはエミシだけではなく、朝廷の眼の届かない日本列島の北方から日本に自由に出入りしていたミシハセがいたのである。

660年に阿倍比羅夫はまた、軍船二百艘を率いて北上し、北海道の南部にいたエミシたちの通報を得て、北の海に出没していた敵対的なミシハセを討伐したと日本書紀に記されている。

しかし、古代日本には多くのミシハセ人がすでに移住していて、彼らによって持ち込まれたユーラシア大陸産の馬の繁殖(南部馬)や、採鉱、採金技術(749年、陸奥国小田郡からの金の産出や、陸奥一帯の多くの金山の発見など)が広まることになるから、その文化は東日本にしっかりと根付いていたといえる。

その後、ミシハセの子孫である靺鞨(マツカツ)族が台頭し、朝鮮半島高句麗に進入する。北海道または日本の北陸・東北地方に移住した者はミシハセと呼ばれるが、高句麗に移住した者がはマツカツと呼ばれた。

 

「北のまほろば」の中に、面白い記述がある。

「ある日、津軽人の子の今東光さんをつかまえて、珍説をのべたことがある。奥州における金・今姓の由来についてである。  

ひょっとすると、遠いむかし、沿海州吉林省遼寧省などにいた騎乗の狩猟民族が、自民族のことを、誇らかに黄金とよんでいたことと無縁ではないのではないか、ということである。  

東光さんはしばらく我慢して聞いてくれていたが、やがて、 『エーエ、あたしゃ、どうせ靺鞨女真の徒でござんすよ』と、絶妙なまで話の腰を折ってしまった。“靺鞨女真の徒”というのは漢文の世界での一種のフレーズで、野蛮で未開の連中というひびきがある。」

 

この靺鞨のことである。

663年、白村江の戦いで唐朝と新羅の連合軍が、日本と百済の連合軍を破り、朝鮮半島が統一されると、高句麗に在住していたマツカツ人の多くが、中国東北に逃亡し、渤海(ぼっかい)国を建国した。

 渤海国は727年、日本との通商条約を締結し、その後、約二百年の正式外交関係を維持した。この間、マツカツ人が日本を訪れ、大勢が日本に帰化したという。古代の東日本にはツングース族の同胞=粛慎(ミシハセ)がすでに移り住んでいたから、親しみと安心感を抱いたのであろう。

 このように、古代の東日本では、青森三内丸山に見られる縄文文化一万年の縄文人をルーツとするエミシと、日本列島の北から入ってきた大陸の人びと、すなわち北アジアツングース族をルーツとする者とが共存していた。

その結果、大陸から伝えられた狩猟と農耕と遊牧と金属の文化と、日本列島独自の森や海と共生してきた縄文文化が融合したところに文明国、日高見があった。この東の都は、大陸の稲作文化をもつ大和朝廷とは全く異なるものであった。

前にも述べたが、この日高見国の名は日本書紀景行天皇(四世紀)の時代にすでに記されている。そののち平安時代初期802年に、日高見国の最後の砦となった胆沢で、エミシ軍の指導者アテルイとモレが部下五百人を率いて、朝廷軍の坂上田村麻呂に降伏した(『日本紀略』)とあって、この国は少なくとも五百年の間続いたことになる。このとき、日高見国が独立宣言でもして抵抗運動を繰り広げてでもいたら、東北地方は、英国におけるスコットランドになっていただろう。ただし、こののちも、朝廷に対する抵抗は散発的に行われ、約二百年後にあった抵抗の戦が産み落としたものとして安東氏が登場するのである。

 

(続く)

 

 

弘前市の北にへばりつくように藤崎町がある。人口一万五千ほどの小さな町である。

僕は弘前に五年住んだが、藤崎といえば、りんご畑が拡がる農村風景しか見たことがなかった。ただ、弘前に飲み込まれそうな位置と規模なのにどこか誇り高く、独立自尊の気概が感じられた。津軽と言えばまず藤崎をのぞいては語れないと主張しているようにその名を見るたびに思った。

それが、安東氏について調べているうちに、11世紀ごろのここが起源だったことを知ったのだが、この町の歴史は、それより古く、津軽の中でも「歴史は深い」(町のホームページ)からだとわかって、得心した。

安東氏のルーツがこの藤崎にあるというのは、ここに長い間城柵があり、弘前にその地位が移る前までこの地方の中心だったと言う史実に根拠がある。

 

前九年の役」(1051年~1062年)と言えば、日本史の教科書には必ず登場するエポックだが、安東氏が歴史に登場するのはこの頃のことである。まずは、その概略を確認しておこう。

 

それより二百年ほど前の平安時代初期(802年)に、日高見国が朝廷軍の坂上田村麻呂に降伏したあと、陸奥国の各地にいた豪族の多くは大和朝廷に従った。降伏した蝦夷を俘囚といったが、このなかに北上盆地から今の盛岡辺りまでの広域を支配する安倍氏がいた。

 

この安倍氏が、頼良の時、11世紀の半ばになると、朝廷への貢租を怠る状態になり、さらには陸奥国府の管轄地域である衣川以南に進出したため、永承6年(1051年)、陸奥国司藤原登任が数千の兵で安倍氏の懲罰に向かい、玉造郡鬼切部(おにきりべ)で戦闘が勃発した。玉造郡鬼切部とは、宮城県北部にある山深いところだが、それより二百年前、坂上田村麻呂が大武丸という蝦夷を討った際にその首が飛んだ場所と言う伝説があり、別にアイヌ語では「小さな川が集まって大きな川になる所」を意味する「オニカペツ」が語源と言われている。この鬼切部の戦いでは、すでに「あぎた=秋田」におかれていた地方管轄官である「秋田城介」の平繁成も国司軍に加勢したが、安倍氏が勝利し、敗れた登任は更迭、河内源氏源頼義が後任の陸奥守となった。

 

翌年永承7年(1052年)、後冷泉天皇祖母、(藤原道長息女、中宮藤原彰子)の病気快癒祈願のために大赦を行い、安倍氏も朝廷に逆らった罪を赦されることになった。安倍頼良陸奥に赴いた頼義を饗応し、頼義と同音であることを遠慮して自ら名を頼時と改めた。天喜元年(1053年)に頼義は鎮守府将軍となった以後、その陸奥守在任中は平穏に過ぎた。

 

その任期満了である天喜4年(1056年)、頼時から惜別の饗応を受けた頼義が胆沢城(鎮守府)から多賀城国府)へ戻る途中、阿久利川で野営を敷いてた。その時、何者かによって頼義配下の陣が荒らされる騒ぎが起こった(阿久利川事件)。

 

これは真相は定かではないが、頼義配下の在庁官人である藤原光貞と元貞が野営していたところ、夜討ちにあって人馬に損害が出た、と頼義に報告があったことに端を発する。

さらに光貞は「以前に安倍貞任(頼時の嫡子)が自分の妹と結婚したいと申し出て来たが、自分は安倍氏のような賤しい一族には妹はやれないと断った。だから今回のことは貞任の仕返しに違いない。」と頼義に答えた。そこで怒った頼義は貞任に出頭を命じたが、頼時は息子(二男)貞任の出頭を拒否し、その結果、安倍氏と朝廷の戦いが再開されることとなった。

 

また、頼時の女婿ながら国府に属していた平永衡が陣中できらびやかな銀の兜を着けているのは敵軍への通牒であるとの讒言をうけ、これを信じた頼義は永衡を殺害した。永衡と同様の立場であった藤原経清は累が自分に及ぶと考え、偽情報を流して頼義軍が多賀城に向かう間に安倍軍に帰属した。

 

天喜5年(1057年)5月、頼義は一進一退の戦況打開のために、安倍氏挟撃策を講じ、配下の気仙郡司、金為時を使者として、安倍富忠ら津軽の俘囚を味方に引き入れることに成功した。

これに慌てた頼時は、7月に富忠らを思いとどまらせようと自ら津軽に向かうが、富忠の伏兵に攻撃を受け、深手を負って本営の衣川を目前に鳥海柵(胆沢郡金ケ崎町)において死去した。頼時の跡を継いだのは貞任であった。

 

頼義は同年11月、再び陸奥国府(現在の宮城県多賀城市)から出撃したが、この時の頼義の兵力は最大に見積もっても国衙の兵2,000名程度と、傘下の武士500名ほどであったと推測されている。

安倍貞任軍は河崎柵(現在の一関市川崎村域)に4,000名ほどの兵力を集め、黄海(きのみ、現在の一関市藤沢町黄海)で国府軍と激突した。冬期の遠征で疲弊し、補給物資も乏しかった上に兵力でも劣っていた国府軍に安倍軍は大勝。国府軍は佐伯経範、藤原景季らが戦死し、頼義自身は長男の義家を含む七騎でからくも戦線を離脱した。

 

その後、頼義が自軍の勢力回復を待つ間、康平2年(1059年)ごろには安倍氏は衣川の南に勢力を伸ばし、朝廷の赤札の徴税符ではなく藤原経清の白札で税金を徴するほどになりその勢いは衰えなかった。

苦戦を強いられていた頼義は中立を保っていた出羽国仙北(秋田県大曲・横手盆地周辺)の俘囚の豪族清原氏の当主、清原光頼に「珍奇の贈物」を続け参戦を依頼したとも、朝廷の命令を楯に参陣することを強く要請したともいわれる。いずれにせよ、これを聞き入れた光頼が7月に弟武則を総大将として軍勢を派遣することになった。

この軍勢は、武則の子荒川太郎武貞、その甥、男鹿の豪族志万太郎橘貞頼、山本郡荒川(現大仙市協和)の豪族荒川太郎吉彦秀武率いる軍、など秋田勢を中心とした朝廷側が源頼義勢3,000と合わせて10,000と推定される。清原氏の参戦によって形勢は一気に朝廷側有利となった。緒戦の小松柵の戦いから朝廷軍は優勢であった。

 

1062年9月17日に安倍氏の拠点である厨川柵(岩手県盛岡市天昌寺町)、嫗戸柵(盛岡市安倍館町)が陥落(厨川の戦い)。貞任は深手で捕らえられ巨体を楯に乗せられ頼義の面前に引き出されたが、頼義を一瞥しただけで息を引き取った。その首は丸太に鉄釘で打ち付けられ晒された。藤原経清は苦痛を長引かせるため錆び刀で鋸引きで斬首とされた。

 

こうして安倍氏は滅亡し、約十二年にわたる「前九年」の長い戦役は終った。

清原氏参戦後、わずか一ヶ月で安倍氏が滅亡した点については、ある時点で安倍氏清原氏の間に密約が成立し、早期の終戦が合意されていたのではないかとの見方もある。

この密約とは、敵将藤原経清の嫡男、清衡が、本来は処刑される運命にあったが、この時まだ七歳であり、これを助命するというものである。清衡の母親(貞任の妹)が、安倍氏を滅ぼした敵将である清原武則の長男清原武貞に再嫁する(密約の正体?)ことになり、連れ子の清衡も清原武貞の養子になることで、難を逃れた。

この清衡がやがて奥州藤原氏へとつながっていくことになる。

 

ところで、藤崎町のホームページには、「安東氏発祥の地」として次のように述べられている。

「戦死した安倍氏の頭領・安倍貞任の遺児の高星丸が藤崎に落ち延び、成人の後に安東氏をおこし、藤崎城を築いて本拠地とし、大いに栄えたと伝えられています。」

この根拠になっているのは、江戸時代に出版された塙保己一の「続群書類従」で、系図奥書に永承三年(1506年)の日付が見え、これが藤崎安藤に関する最も古い記録と推定されているらしい。この藤崎系図(安倍姓)では、

長髄彦の兄安日の末葉(子孫)安倍貞任の子高星(たかあき)が藤崎安藤の祖となったとされている。高星は貞任敗死後、三歳の時乳母に抱かれて、藤崎に逃れ、藤崎城主になり、その子堯恒は、安藤太郎、のち藤崎太郎と称した、と伝えている。」(弘前大学学術情報リポジトリ「東水軍史序考」佐藤和夫

長髄彦」は神話の中の人であり、高星の存在も確たるものではないとする説もあるようだが、藤崎町では町の歴史としてこの安倍貞任の系譜を掲げている。

 

もうひとつ「続群書類従」第七輯上には、成立年度は不明だが、貞任の子孫が安藤氏となったと言う記述もある。(安藤系図

「貞任敗死後、四歳の貞任末子(則任)を家人が山中に隠した。藤原清衡の子惟平に男子がなく、祖母(貞任妹)の縁により、七・八歳の時に則任を養子にした。すなわち白鳥太郎則任で、その孫季任の時成人後、本姓安倍氏と養父姓藤原氏と合わせて安藤としたという。安藤氏祖で、安藤太郎と称した。」

 

ここまでの記述で僕は、これは変な話だという印象を持った。

安倍貞任の子、則任(四歳)を山中に隠したというのは高星の話しに共通するところがあってありうることだと思う。が、このとき同時期に助命されたという藤原清衡は七・八歳ということだった。つまり、則任(四歳)が匿われた時、清衡は同じ世代である。ところが、「清衡の子惟平に男子がな」かったので、七・八歳の則任を養子にしたというのは年齢が合わないのである。

「祖母の縁」とあるのは、清衡の母親が貞任の妹だから惟平から見れば祖母にあたる。祖母の兄の子を養子にしたという関係になるが、自分の父親ほどの世代の男、しかも主筋のものを養子にしたというのは本当だろうか?

もっとも、則任は貞任の子ではなく、弟(清衡の母親の兄弟で、清衡の叔父)だという説もあり、このあたりはどうも国史学上混乱しているように見えるが、これを指摘するものに出会ったことはない。

もうひとつの疑問は、則任の孫である季任が成人後、安藤太郎になったのと、藤崎で高星の子、堯恒が安藤太郎になったのでは一世代分の時代が違うが、では歴史上「安藤太郎」の出現はいつか、ということである。

 

続群書類従」の記述は続く。

「その子小太郎季俊(則任の孫、季任の子)は文治五年(1189年)奥州合戦(平泉藤原氏源頼朝の戦い)の時、頼朝の幕下に属し、その子安藤季信は津軽守護に任ぜられた。その孫、又太郎季長は嘉暦(1326年~29年)の頃、安藤の乱・津軽大乱の中心人物となり、幕府の討伐軍によって誅滅させられている。その後子孫は秋田に移住し、秋田安藤次郎李道は、はじめ宮方に属し、のち足利尊氏に属した、と言うところで終わっている。」(「弘前大学学術情報リポジトリ」同上)

 

この記述では、「前九年の役」から奥州合戦までいきなり百年ほど飛んでしまって、「安藤氏」成立のプロセスが、必ずしも明瞭ではない。しかも、高星が藤崎城に現れ、その子が安藤を名乗る時と大巾にずれている。

これでは何が本当か訳が分からん。

 

 

僕は、安東氏が十三湊に現れ、一時期繁栄した、と言う「北のまほろば」と井手君の思い出から、そのいきさつを確かめようとして、この作業を始めた。しかし、もともと国史学上の真実を文献から読み解こうなどという気はさらさらない。専門家が、これまで、文献の少ない中を悪戦苦闘して調べ上げたのと同じ次元でこれを論じることはそもそも素人である僕に出来る技ではない。

 

安東(安藤)氏の足跡がはじめて11世紀後半の藤崎に見いだされることが分かって、そこから十三湖に至り、鎌倉時代末期にかけて繁栄した後、その末裔が出羽の秋田に出現することが分かったので、そのあらましを確かめればそれで満足だと言うことである。

とりわけ今度は、生まれ故郷にその縁があったことに、はじめて気が付いて、いささかショックだった。

故郷の弟に「桧山は、安東氏と関係があったらしいが知ってるか?」と聞いたら、「安東氏について調べると早死にするという都市伝説がある。」という答えだった。僕が子供の頃は、安東の「あ」の字も聞いたことはなかったのに、いまでは調べてみようと思ったものにとっても謎が多いということなのだろう。(もっとも安東の話題が出なかったのは、本来はよそ者である僕の周辺だけだったのかもしれない。)

 

ここまで、安倍貞任の子孫が安東氏成立に関わっていることは確からしいことは分かった。それには、「前九年の役」の中の安倍貞任を中心としてその全体像を理解する必要があった。そこから藤崎安東氏に至る道筋はことが単純だけに理解はできるが、安倍貞任の子、高星が何故「安東」姓を名乗ったのか、納得できる説明はないと僕には見える。

そこにいくと、「清原清衡の息子の養子になった、貞任の子、(白鳥太郎)則任、その孫季任の時成人後、本姓安倍氏と養父姓藤原氏と合わせて安藤とした」という「続群書類従」の記述は、安藤氏の起源として説得力があると僕には思える。

 

では、その白鳥太郎則任は、どこへ行って、またその孫の季任はどこで安藤と名乗ることになり、その子孫が平安末期または鎌倉初期には十三湊にいたったのか?

それを確かめるには、清原氏の中に分け入って則任の行方を捜す他ないのではないか。「前九年の役」で勝者になった清原氏の動静となれば、まさに、「前九年」から約二十年経った「後三年の役」(1083年~)というもうひとつのエポックのことになる。

この頃になると、清衡は三十歳前後。養父清原武貞には、嫡子真衡(清衡異母兄)と、弟の家衡(母親が武貞との間に産んだ異父弟)がいる。

 

後三年の役」のあらましとは?

清原武貞亡き後、惣領となったのは真衡だが、嫡子がいなかったため、桓武平氏の血をひく成衡を養子に迎える。この成衡の嫁に源頼義の娘と称するものを娶らせることで、源氏と平氏の血筋を一挙に入れ、異母弟の家衡を清原氏嫡流から外す所業に及んだ。こうして内紛の火種はできあがっていた。

 

事の起こりは実に単純であった。成衡の婚礼のとき、出羽から真衡の叔父で清原一族の重鎮、吉彦秀武陸奥の真衡の館まで祝いに訪れた。秀武は朱塗りの盆に砂金を盛って頭上に捧げ、真衡の前にやってきたが、真衡は碁に夢中になって応対しなかった。面目を潰されたと秀武は大いに怒り、砂金を庭にぶちまけて出羽に帰ってしまった。

これに怒った真衡は、直ちに秀武討伐の軍を起こしたが、一方の秀武は、同じく真衡と不仲であった家衡と清衡に密使を送って蜂起を促した。二人は秀武に呼応して兵を進め、<白鳥村>を焼き払った後に真衡の館に迫った。

これを知った真衡が軍を返して家衡と清衡を討とうとした為、二人は決戦を避けて本拠地へ後退した。家衡と清衡を戦わずして退けた真衡は、再び秀武を討とうと出撃の準備を始めた。

 

永保3年(1083年)の秋、成衡の妻の兄である源頼義の嫡男、源義家陸奥守を拝命して陸奥国に入ったため、真衡は義家を三日間に渡って多賀城国府)で歓待し、その後に出羽に出撃した。

家衡と清衡は真衡の不在を好機と見て再び真衡の本拠地を攻撃したが、すでに備えをしていた真衡方が奮戦した上、国府も真衡側に加勢したため、清衡・家衡は大敗を喫して国府に降伏した。

ところが出羽に向かっていた真衡は行軍の途中で病のために急死してしまうのである。

真衡の死後、義家は真衡の所領であった奥六郡を三郡ずつ清衡と家衡に分与した。清衡に和賀郡、江刺郡、胆沢郡、家衡に岩手郡紫波郡稗貫郡が与えられたのではないかとされるが確証は無い、らしい。

ところが今度は清衡と家衡が対立し、応徳3年(1086年)に家衡は清衡の館を攻撃した。清衡の妻子一族はすべて殺されるが、清衡自身は生き延び、義家の助力を得て家衡に対抗する。

義家は自らの裁定による奥六郡の秩序を破壊した家衡に激怒し、清衡を支援する。9月に朝廷は義家の次弟義綱の陸奥国への派遣を協議したが、事情聴取は行われたものの義綱の派遣は実現しなかった。

清衡と義家は沼柵(秋田県横手市雄物川町沼館)に籠もった家衡を攻撃したが、季節は冬であり、充分な攻城戦の用意が無かった清衡・義家連合軍は敗れた。

 

武貞の弟である清原武衡は家衡勝利の報を聞いて家衡のもとに駆けつけ、家衡が義家に勝ったのは武門の誉れとして喜び、難攻不落といわれる金沢柵(横手市金沢中野)に移ることを勧めた。

寛治元年(1087年)7月、朝廷では「奥州合戦停止」の官使の派遣が決定。8月には義家の三弟義光が無断で義家のもとに下向し、9月に朝廷は義光が勝手に陸奥国に下向したとして官職を剥奪した。同月、義家・清衡軍は金沢柵に拠った家衡・武衡軍を攻めた。

だが、なかなか金沢柵を落とすことは出来なかったため、吉彦秀武兵糧攻めを提案した。包囲したまま秋から冬になり、飢餓に苦しむ女子供が投降してくる。義家はいったんはこれを助命しようとしたが、食糧を早く食べ尽くさせるために皆殺しにした。これに恐怖したため柵内から降伏するものはなくなり、これによって糧食の尽きた家衡・武衡軍は金沢柵に火を付けて敗走した武衡は近くの蛭藻沼(横手市杉沢)に潜んでいるところを捕らえられ斬首された。家衡は下人に身をやつして逃亡を図ったが討ち取られた。秋口に始まった戦いが終わったのは11月(1087年12月)であった。

 

これを朝廷が義家の私戦と見なしたため、義家は主に関東から出征してきた将士に私財から恩賞を出さざるを得なかった。しかし、このことが却って関東における源氏の名声を高め、後に玄孫の源頼朝による鎌倉幕府創建の基礎となったといわれている。

戦役後、清衡は清原氏の旧領出羽と陸奥のすべてを手に入れることとなった。清衡は、奥州平泉に拠点を築き、実父である藤原経清の姓藤原に復すこととなり、清原氏の歴史は幕を閉じた。

 

この「後三年の役」に、則任(由来)の名が見えるのは、わずかに<白鳥村>だけであった。この白鳥村は、前沢の南、東に北上川を望む白鳥川河畔に位置する。ここに、安倍頼時の子白鳥八郎行任(則任)の館があったという伝説(ここでは「貞任の遺児」ではなく「頼時の子」=貞任の兄弟になっている)は残っていた。しかしそれが、いつのことか定かではないし、九州へ流されたとか茨城へ行ったとか様々な情報があって、その消息を追うことは出来なかった。

 

もうひとつの手がかりは「則任の孫、小太郎季俊(季任の子)が文治五年(1189年)奥州合戦(平泉藤原氏源頼朝の戦い)の時、頼朝の幕下に属し、その子安藤季信は津軽守護に任ぜられた。」という記述である。ただし、これは「後三年の役」の百年後のことであるから、その間のことはまったく分からない。

十三湊の安東氏にたどり着くために、今度は、津軽守護に任ぜられた安藤季信の来歴に取りかからねばならないようだ。

 

(この作業の途中、安東氏の歴史について関連の書籍があることを知った。いま古書店から取り寄せている。次はこれを読んで、安東氏という謎の一端を解き明かしてみたい。)

 

 

山梨県の西を流れる早川の上流、農鳥岳(3,026m)の麓に奈良田という集落がある。平家の隠れ里、などと言われる山深いところで、道は、数十キロも先で北岳(富士山に次ぐ日本第二の高峰)の登山口、標高千五百メートルの広河原に通じている。とはいえ、ここから先には人家がなく、したがって、南アルプスの広大な山域、つまり「異界」に踏み入る、ここがその入り口である。

安東氏はまた別の異界ではないかという思うことがあった。

 

奈良田には、鄙びた温泉があって、湯温はややぬるいが、あまり人が来ないから快適で、昔、湧き水を汲みにあちこち行っていた頃、時々日帰りで行っていた。奈良田へ向かう途中に草塩と言う小さな集落があって、ここの県道の脇のコケの生えた岩の間から水が湧きこぼれているのを、目当てに行くのだが、そのとき必ず奈良田まで足を伸ばした。そのため、このあたりの地理はすっかり頭の中に入っていると思っていた。

河口湖から富士山麓を回って、本栖湖を見下ろす峠道から西へトンネルを抜け、標高を下げていくと下部温泉の町並みが湯煙とともに道脇に見えてくる。やがて富士川を渡り、静岡と甲府を結ぶ幹線道路を横切って、支流の早川沿いの道を進むのだが、ある時、久遠寺から身延山に登ってみようと思い立ち、幹線道路を静岡方面に左折した。

すると、道路標識に、「南部」(方面)という文字が現れはじめるので、ほう、ここにも「南部」があったのかと気にとめたことを覚えている。

 

この南部の話である。

「北のまほろば」の中に、こんな記述があるので、少し長いが引用しよう。

 

「ここでまたしても地域名についての説明が要る。南部とは何かということである。

方角のことではない。

陸奥

という国名が広大すぎるため、何世紀もの間、今の岩手県から青森県東部にかけての大きな地域は南部とよばれてきた。

南部はもと、との様の姓である。

姓より以前は。地名だった。それも、遠い甲斐国(今の山梨県)の地名なのである。

山梨県南巨摩郡富士川右岸の氾濫原に南部という小さな地名があった。いまもある。

十二世紀、源平の頃、そこに豪族がいて、地名を姓としていた。いまでも南部氏が築いた城館の跡が残っている。

その南部氏から三郎光行というものが出てわずかな人数を率い、海路はるかに奥州の地に来たという。

『南部系譜』では唐突にやって来たのではなく、源頼朝の奥州征伐に従軍し、軍功によって五郡をもらったという。しかし無名に近い小豪族が、いきなり五郡も拝領できるものなのか。すべては伝説の霧の中にある。

『奥南旧指録』では、頼朝の時代よりもずっと後のことだという。

甲斐から来た南部三郎光行ら主従七十余人が、鎌倉の由比ヶ浜から兵船に乗って八戸(青森県)に上陸した、という。鎌倉の由比ヶ浜から来た以上、幕府の黙許は得ていたのかもしれない。

時に十三世紀、鎌倉時代の前期である。彼らは観音堂で越年した後、

「百姓の家に入りたまひ、一夜堀をほらせ玉ふ」

という。野盗の類に似ているが、こういう創業の仕方は、室町の頃播州兵庫県)辺りにもあった。

従者に、桜庭、三上、神、岩間という姓のものがいた。桜庭は明治維新まで南部藩における二千石の大身だった。同じく原という姓の者もいた。大正時代の政治家原敬の祖であった可能性が高い。

創業当時の原氏の本国は甲斐だが、桜庭や三上の本国は近江だったらしい。様々に想像すると、鎌倉でごろごろしていた甲斐の南部三郎光行が、

「どうだ、これから奥州を切り取りに行こうと思うが、ついてこないか」

と、幕府の端役にもつけぬあぶれ武者どもをあつめたのかもしれない。こういう想像が許されるほど、当時の奥州は不安定だった。」(「北のまほろば」)

 

その奥州は「後三年の役」(~1087年)のあと、勝利した清原清衡が、名を父親の姓に戻して藤原清衡を名乗り、平泉に拠点を置いて、出羽の一部と陸奥を合わせた広大な地を支配するようになった。むろん源義家が後ろ盾になったことによる。

 

前回の最後に僕は、

 「十三湊の安東氏にたどり着くために、今度は、津軽守護に任ぜられた安藤季信の来歴に取りかからねばならないようだ。」

と書いたが、これでは、時間が二百年ほども飛んでしまう。

そこで、逆から見て二百年の間に、十三湊に安東氏が現れるのはいつだったかそれまで何が起きていたのかを調べてみることにした。

 

「前九年・・・」よりもずっと以前から、十三湊は天然の良港のため、日本列島交易路の中心となり、10世紀後半には十三湖北端に地域経営の拠点となる福島城が築城されていた。「十三」は、語源がアイヌ語の「トー・サム」(湖の畔り)であり、福島城柵を築いた者は不明らしいが、アイヌあるいは蝦夷由来の者かもしれない。

「後三年・・・」のあとには北海道のアイヌとの交易拠点として奥州藤原氏が進出、一族の藤原秀栄が土着して、これが後に十三氏を名乗って、一帯を支配していた。

藤崎安東の系譜をたどることにしよう。

 

さて、藤崎に落ちのびた安倍高星は、ここに城柵を築城しはじめ、その子堯恒の時に安東氏の基盤を確固たるものにした。その勢域が拡大するにつれ、西海岸に開ける十三湊に注目することになる。

第一に、日本海沿海州蝦夷地の広大な地域で交易が出来、莫大な利益をもたらすにちがいない。第二に、岩木川を使えば、容易に往来が出来る。

そうして得た財力を元に、かつて、安倍一族が支配した陸奥一帯を取り戻せると夢想したかもしれない。

 

堯恒の子貞季(貞秀)の時、津軽萩の台(弘前市津賀付近)において、十三秀直と激突(萩野台合戦、1229年)、これを打ち破って十三湊を手中に収めた。安東氏が本拠を十三湊に移すのは、貞季の孫、愛季の時である。高星から数えて五代目(すでに鎌倉中期か?)である。すると「津軽守護に任ぜられた安藤季信」とはどこにあてはまるのか?

それは、ともかく、のちにつくられた系図に「安東太郎を持って当家の仮名となす。」とあって、萩野台合戦の頃から安東氏の称号を名乗ることになったものではないかいうことであった。(「秋田『安東氏』研究ノート」1988年、渋谷鉄五郎)

それに、この「秋田『安東氏』研究ノート」には、続いて

「また、高星、津軽郡安東の地(南津軽郡藤崎)に逃れ、そこを領して安東太郎と称したのにはじまる」(河出歴史辞典)ともいう。安東の地とは、太古の十三湖は後年の藤崎地域まで入り込んでいて、そこを「安東浦」」と称したという」(市浦村史資料)

と書かれている。

 

僕はこれを読んで、もう一度地図をながめてみた。

確かに津軽平野岩木川流域の両側に開けて十三湖に達しているがこの陸地に水がたたえられて最深奥部の藤崎に「浦」が形成されていたことを想像するのはむずかしいのではないかと思った。

能登半島は今年正月に四メートルも隆起した。ここは隆起して出来た半島だということだが、地震はおそらく千年ぶりだったらしい。

すると津軽平野がまるごと隆起して「安東浦」が岩木川河岸段丘、藤崎になるには数千年どころか、数十万年以上はかかると思われる。そんな前に誰が「安東浦」を名付けたものか?

「河出歴史辞典」の記述にしてからが、「市浦村史資料」を元に書かれたものに違いない。

では、「市浦村史資料」とはなにものなのか?

 

僕は国史の専門家ではないと再三言ってきたが、こんな「怪しい」ことを「秋田『安東氏』研究ノート」が平気で記述するのはおかしな話しだと思って本の発行年を確かめた。1988年とあって、安東氏研究もまだ道半ばだった時期で、深く考えもせずにそこにあるものを入れたのだろうと想像した。

しかし、こんな奇妙な話しには裏があるとにらみ、本題と関係ないかも知れないと思いつつも、つい、調べてみることにした。

 

村史資料とある以上、公的なものとして編纂されたと思うが、なんと、中身は『東日流外三郡誌』(つがるそとさんぐんし)という厖大な歴史書をほぼそのまま資料にしたものだった。

東日流外三郡誌』は、青森県五所川原市飯詰在住の和田喜八郎が、自宅を改築中に「天井裏から落ちてきた長持ちの中に入っていた」大量の古文書として1970年代半ばに登場した。この古文書の編者は秋田孝季(福島の三春藩九代目当主)と和田長三郎吉次(喜八郎の祖先と称される人物)とされ、数百冊(巻)にのぼるとされるその膨大な文書は、古代の津軽地方(東日流=ツガル)には大和朝廷から弾圧された異民族の文明が栄えていたと書かれている。

ただし、秋田孝季については、この本についての議論が進んでいくうちに、藩主本人が書いたというには無理が出始めたため、「原本」はいつしか「写本」となり、編者も「秋田孝季」(たかすえ)という縁つながりの別人になったという。

市浦村は、これ(のコピー!)を高額の対価で買い取って、村史として編纂出版した。従って、公的な機関が承認した歴史書として通用するようになったし、国立国会図書館にも収納されているところを見れば、世間には一定程度認められているらしい。

 

興味を持ったことにはトコトンつきあう性格で、今度も、『東日流外三郡誌』について調べてみようと思い立った。

すぐに、各地の図書館やら公的な組織が収蔵しているらしいことはよく分かる。

ところが、次に目に飛び込んできたのは 斉藤光政著「戦後最大の偽書事件 「東日流外三郡誌」 (集英社文庫)であった。

あれ?どこかで見た作者だ。

そう、「安彦良和、原点(The Origin) 戦争を描く、人間を描く」(岩波書店、2007年)のインタビュアーであり著者である。青森県の県紙、東奥日報の記者で、僕はもちろん会ったことはないが、この本の成立についてほんの少し聞いていたので覚えていた。

この斉藤さんが、1992年、政経部から社会部に異動してはじめて扱った事件がこれであった。事件といっても、九州の大分在住の人が和田喜八郎に貸した図版を盗用され、返してもらえないので、裁判に訴えた著作権違反と損害賠償の民事訴訟だった。

 

 

五所川原からみて青森市はほぼ真東にある。しかし、行くには一旦南東の弘前―藤崎方面に向かい、それから北上しなければならない。津軽半島東部には竜飛岬の先端に至る小高い山脈(中山山脈)が通っていて、これが行く手を阻んでいるからだ。わずかに、いつ頃通したものか分からないが、県道26号線(津軽あすなろライン)が五所川原市飯詰あたりから山脈を越えて細々と青森市郊外の油川に通じている。冬期間は閉鎖という山深いところだ、

グーグルアースで調べると、その真ん中辺り、県道からかなり外れた山中に、「石塔山大山祇神社」という目印がある。これは、別の地図上では十和田神社となっているが、「石塔山荒覇吐(あらはばき)神社」ともいうらしい。荒覇吐神社というのは、主として関東地方に散見されるもので、この津軽地方には他に存在しない。正確に言えば、戦後この神社に命名された時からそうなった!のである。「荒覇吐」の由緒は不明ながら、大和朝廷に追いやられた蝦夷由来の神をまつるということで、日本古来の神とは異質であるという説があるらしい。

 

ここは、「東日流外三郡誌」騒動以来、結構知られるようになった場所らしく、訪ねた人の記録によると、県道から外れ細い道をたどって三十分ほど歩くと、林の中に朽ちた鳥居が現れ、その脇に大きな石が並べられており、奥に木造の社が建てられているという。

しかし、この「石の塔」と呼ばれる場所に神社が建立されるまでは、十和田様という水神と山の神がまつられた小さな祠があるだけで、一帯で炭を焼く村人が通るだけの何もないところだった。訪ねた人がたどった道は、焼き上がった炭を運び出すための馬車の通り道として、戦後まもなくの頃につけたものだった。 

この神社がすべての始まり、だったように思える。

 

 

 

 

 

 

 

僕は、安東氏という謎を追いかけて、それが十三湊以降、どうなったかを確かめればそれで満足だと思っていた。井手君が、興味を示した60=70年代初頭の頃から見ると、彼の勘が正しかったように、かなり広汎に「安東氏」についての関心が高まり、関係の文献も多くなっていた。

ところが、調べると資料によって内容や時系列が違い、公的な出版物でさえ伝聞や偽書の引用などが混じって、その矛盾を糺そうとすると、さらに混乱するという有様で、正確な歴史を知ることなど困難かと思いはじめていた。この調子では、何が本当なのか?

正直のところ、これではもう現代から見て分かる範囲でいいやと思うようになった。

 

それはそれでいいのだが、斉藤さんが戦後最大の偽書などとセンセーショナルに言うものだから、立ち止まって何があったか確認しておこうという気になったのだ。とりわけ、興味を引くのは事件の主役である和田喜八郎という人物が、「安東氏」を利用しながらどのようにして人を欺いたかである。

 

ここから先は、斉藤光政著「戦後最大の・・・」に書かれていることに全面的に寄りかかって、というより、書かれていることを紹介しながら僕の興味について説明しようと思う。

僕の興味というのは、2005年3月に書いた新国立劇場上演、劇評「花咲く港」が念頭にあった。これは菊田一夫の戯曲で、昭和18年初演であるが、同年木下恵介監督デビュー作品として、小沢英太郎、上原謙水戸光子らで映画化されたものである。

ある南国の島に、かつて有力者として住んで居た人の息子と名乗るふたりの青年が、やって来て、村おこしとも言える造船会社を立ち上げ、島人にも出資を募ろうとする話しである。

このふたりが詐欺師で、その手口や欺される方の事情も対置されることによって生まれるドラマ性。それは、喜劇というにはいささか強すぎる、詐欺師の行動にただよう「滑稽さ」あるいは、そこはかとない「おかしみ」、それにまんまとやられてしまう普通の人々に対する密かな同情といった観客に生まれるであろう心理、それが僕の関心である。

 

和田喜八郎という一生は、人を欺くという点では一貫していたが、塀の中へ転がり込むようなことは一度もなかった。それだけ用心深く嘘に嘘を重ねた様子は天才的と言える。

残念ながら、斉藤さんの記事は、新聞記者らしく事実を追求する姿勢に徹していて、しかも和田喜八郎が自分に批判的な記者、斉藤さんと直接会うのを避けたこともあって、何故それに思いついたか、思いつきの殴り書きとはいえ膨大な量の古史・古書をねつ造する知識はどこから得たのかなど、周辺の取材を含めて徹底しておらず、彼の詳細な経歴や深層心理に迫っているわけではない。

だから、詐欺師の側の内面については知りようがないが、時々行動に演戯性が発揮され、その照り返しとして被害者の心理が浮かびあがることがある。人は疑いを持ちながら、目の前のことをなかなか否定は出来ない。そのとき詐欺師は何を感じていたのか、その心理的な駆け引きについて、斉藤さんの追求は今少しと思うこともある。

また、せっせと偽の文書をつくり、拾ってきたガラクタに勝手な価値をつけ、いくら稼いだのか? 偽書を何冊か発行し、その印税はいくらになったのか?それで和田喜八郎の生計は立っていたのか? ということについて、斉藤さんの関心はあまりなかったと見えて、もうひとつのエンジンである経済的な動因ははっきりとはわからない。一生をかけるほどの結構な収入になったものなのか?

 

 

さて、神社に戻ろう。

戦後まもなくの頃、のちに「石塔山荒覇吐(あらはばき)神社」と呼ばれるようになる、石の塔の水神さまと山の神がまつられた祠の側の沢で、当時、二十代の和田喜八郎と父親が炭焼きの窯をつくるのに整地していたら、アイヌの土器が出てきたという。これでことさらのように騒いで、石の塔には何かあるという心証を飯詰村(当時)の人々の間に形成していこうとしていたようだ。

関係者によれば、1951年の飯詰村村史編纂の時は、ここに秘宝が隠してあるとか安東、安倍氏の墓だとかいう伝説のかけらもないただの朽ち果てた祠だった。

ただし、和田喜八郎の家の天井裏の長持ちから出てきたという大量の文書は、数年前には「地中」から出てきたという触れ込みで(当時、和田の家はかやぶき屋根で、天井裏はなかった)すでに存在していた。これを市浦村でやったように自分の住んでいる村史に取り込むのは、村の誰もが知っている土地のことだからさすがにはばかれたのだろう。

 

東日流外三郡誌」が「市浦村史資料編」全三巻として刊行されるのは、1975年から77年にかけてである。これを編纂した村の関係者によれば、初めは安東・安倍氏の財宝がどこかの洞窟に隠してある、ついてはその発掘調査をしないかという話しだったらしい。それが出てきたら、村のPR になるし郷土史の材料になると考えて、その話しに幾許かの金を出資した。しかし、なにもでてこないから、多少焦って、あまり深く検討もせずに「市浦村史資料編」を出版することにしたというのである。

 

では、「石塔山荒覇吐神社」はいつ出来たものか?

1978年に作成された「建設趣意書」に名を連ねたものは、和田はもちろんだが、「講中代表総代 建設委員」は、藤本光幸、同じく「講中総代」相馬弥一郎という人物である。

 

藤本光幸とは何者か?

斉藤さんの取材によると、藤崎町の資産家(らしい)で、「和田の最大のスポンサー」であり、しかも「外三郡誌の所有者の一人」とされていた。  藤本が編者を務めた外三郡誌関係の本にも「外三郡誌の詳細を語る第一人者」と紹介され、本人自身も「生涯の使命として、和田家文書の原稿化に努めている」と力説していた。外三郡誌は正しいとする、歴史学者古田武彦など、いわゆる擁護派(真書派)の中心メンバーの一人であった。ということになる。とはいえ、藤本の来歴についてこれ以上の取材はなく、この男が何者なのか詳細は不明である。ただし、藤崎の町を調べると、藤本光幸商店というのがあり、看板にかすれた文字に輸出商と見えるが、何の輸出か?それ以上は分からなかった。

 

もう一人の、相馬弥一郎は五所川原で古物商を営む老人で、和田の骨董仲間、商売の師匠・相談役にあたる人物らしいが、斉藤さんがこの趣意書を発見したときは物故者だった。

すると、和田喜八郎の生業は古物商だったのか?

相馬弥一郎には息子が居て、和田のことをよく知っていた。彼によると、

市浦村史を出した後、世間の評判がよろしくないところから、和田は疎んじられ、収入源が途絶えたので、「東日流外三郡誌」のルーツを市浦村からどこかへ移す必要が生じた。

そこで、おそらく、石の塔にあった祠を根拠に神社を作ることを思いついた。その頃まだ若輩ものだった和田は、それを年長の相馬弥一郎に相談し、結果、土地の代議士の名前を借りて寄付を集め(1978年)、山の神をまつる神社建立(1980年)にこぎ着けたということであった。

1983年に相馬弥一郎が亡くなると、単に水神と山の神をまつる神社が、和田の手によって、アラハバキがまつられ、安倍一族の墓になり、ならべられた大石に北斗七星という意味が与えられ、「東日流外三郡誌」を書いたという秋田孝季の石像(近所の石材店からもらってきたもので秋田とは何の関係もない)が置かれて、めでたく「石塔山荒覇吐神社」になったのだ。

相馬弥一郎の息子の言によると、この神社は由来はもちろん、中身もすべてでたらめな作り話で、要は和田が古物を売るための道具の一つにすぎないのであった。

 

 

丑寅日本記」が和田家文書として発見されたのは1991年のことである。例の藤本光幸・編として、五所川原市の新聞社から出版されはじめたのは1992年からで2007年頃まで断続的に続く。

 

戒言

此の書は他見無用門外不出と心得ふべし。

寬政五年八月廿日             秋田孝季

                     和田長三郎

という記述からはじまる全十一巻の長大なものである。

 

この冒頭にある「他見無用門外不出」とあるのが味噌で、「原本は出せない。コピーなら出す」といって、紙や、墨、筆跡について古書としての鑑定を巧みに避け、真贋の判断をむずかしくした。

 

寛政の人、 秋田孝季と和田長三郎は、蝦夷地を越え、ロシアにいたり、アムール川を旅する。しかも、見聞したものを現代のマンガみたいな画で描写しているのだ。一見、笑うしかないものだが、人を欺すにはこんなもので十分なのだろう。

僕は、内容については興味がなかったので、ちらっと見ただけだが、よくもまあ、こんな嘘を思いついて、しかも、古文を装ういい加減な文体で長大な文章を書けるものだと感心してしまった。この能力を他に向けたら、少しは人に尊敬されただろうにと思う。

 

 

1991年、和田家文書として「丑寅日本記」発見の頃、秋田県田沢湖町が町史編纂作業をやっていた(出版は1992年)のが和田喜八郎の耳に入っていたかどうか?

あるいは、耳に入ったから「丑寅日本記」はある意味「大急ぎ」で準備されたか?

 

この話は、実に傑作である。

 

田沢湖町教育委員会の町史編纂室長が、どう言う訳か和田喜八郎と個人的に親しい間柄だったらしい。このいきさつは斉藤さんの取材にない。が、

当然、和田家文書の一つ「丑寅日本記」に書かれてあることは、信じたものと思われる。何しろ親しいのだから。

 

その田沢湖町に生保内というところがある、「吹けや生保内東風(おぼねだし)七日も八日も(ハイ)・・・」と歌う民謡で知られたところだ。そこの辺鄙な、人もいかないような場所に、四柱神社という小さな神社がある。地元では荒覇吐神社ともいわれていたらしいが、もともとの由来が何なのかは調べても分からない。「丑寅日本記」からの引用が、町の正史になっているからここは「青龍大権現がおわす、田沢湖のたつこ姫の墓があるところ」である。当時は、たつこ姫は、民話の中の人だからその墓があるのはおかしいだろうと思う人もいたらしい。今では誰も信じていないという。

 

丑寅日本記」には、千年前の「前九年の役」で敗北した安倍一族が、この四柱神社にまつられていたご神体を持ち去り、津軽五所川原の石塔山荒覇吐神社に祀っていたと書かれている。

文書発見の翌年、1992年の二月に和田家文書擁護派の大学教授、古田武彦田沢湖にやって来て、文書について講演、続いて五月には「東北王朝秘宝展」が開催されている。

この「・・・秘宝展」の前に、 和田喜八郎がやってきて、 陳列品には四柱神社のご本尊も含まれるので、この際、930年ぶりに、このご神体を本来の場所である四柱神社遷座することにするという。そこで、それを受け取りに、田沢湖町町史編纂室長と神社の氏子代表ご一行が、五所川原市の石塔山荒覇吐神社へ向かうことにした。

和田喜八郎は、受け渡しの現場で氏子たちに、人目にさらすと天罰があたるから、絶対に見せるなといい聞かせ、ご神体は時価にして2~3億円もする貴重な遺物であると言明している。

田沢湖町町史編纂室がいくらの対価を払ったかは、税金の使い道のことだから当時の記録を見れば分かるだろうが、今のところ不明である。

 

斉藤記者が、この遠い秋田県で行われた遷座イベントに疑いを持って、田沢湖を訪ねたのは、二年後の1994年のことである。

その直前である三月に田沢湖町四柱神社に、和田喜八郎から新たに新しいご神体が贈られたことを聞いていた。それは、縄文時代の遮光式土偶であるが、青森県亀ヶ岡遺跡から出土したものが国宝として有名で、同じものがいくつもあるはずがない。調べると、弘前市でつくられている比較的精巧に出来たレプリカであったようだ。

田沢湖町では、そんなものがあってもしようがないと思ったが、ことわることも出来ず、受け取ったということらしい。ここでもいくらかお金が動いたのだろう。

(つづく)

 

 

田沢湖町四柱神社とは、生保内の街の東(田沢湖とは反対側の)の小高い山の麓にある、いわゆる鎮守の森の小さな社にすぎない。

前回書いた「たつこ姫の墓」は、近所にあるちがう場所の青龍大権現という社のことだった。ただし、「たつこ姫云々」は『丑寅日本記』が根拠であるというから誰も信じてはいないというのは本当だ。

訂正しておこう。

 

そこで、あらためて、四柱神社のことを調べてみた。

写真では、杉木立の中に小振りながら新しい立派な社が鎮座している。遷座式の時に四十五万円かけたものらしい。

神社の前にはそんなに古くない、由来を示す看板が立っている。

それにはこう書かれていた。

 

四柱神社由緒

所在地 田向塒森

旧稱  荒脛巾太郎権現

 祭神 伊邪那岐尊 伊邪那美尊

    天照大神 素戔嗚尊

外宮の神として

 秋葉山(火の神)天の神

 大山祇神(山の神)地の神

 馬頭観音 

 神社上手に泉あり 水の神

以上の諸神を現在は祭祀して居るが、、前記のように、もともとは荒脛巾神を祀ったものである。荒脛巾神とはすなわち安日彦王であり、また自然を祭った神でもある。天、地、水、これが古代祖先の信仰した神であった。当神社は信仰厚い氏子の手で、その神を失うことなくこれまで守り信仰してきたものである。

その間には、事あるごとに数多くの奇蹟があり、地元民の信仰をさらに深くしている。

当神社の祭主は、始めは生保内城(古舘)の安倍一族と考えられ前九年の役(1063年)で安倍一族が滅びた後、地元民がこの神を地元の守り神として信仰してきた。

明治の始め神社神道の勃興という大きな曲面にあたり、地元神の名を掲げるに憚るところがあり、止むを得なく前記の現際神の四柱神を届出し四柱神社となったものである。

なお、当神社の創建は養老二年(718年)となって居るが、実際はもっと以前から祭られて居ったものと考えられ、その証としては神社の近辺から無数の縄文土器類の出土がある。

現在は、田向、野村、相内端の産土神として氏子八十六名あり、例際日は毎年八月十四日で盛大に行われている。

                         四柱神社氏子一同」

 

つまり、もともと荒脛巾太郎権現を祀っていた(それと天皇家の祖先がいっしょに並べられているのは少しおかしいけど)ものだが、明治の廃仏毀釈の時、荒脛巾神では天皇家に対して具合が悪いから、天と地と水に、馬頭観音を加えて四つにし、四柱神社として届け出たということらしい。ということは、四柱神社と言う神社名は、明治以降のものだった。

ここで、「当神社の祭主は、始めは生保内城(古舘)の安倍一族と考えられ」という一文はいつ「考えられ」たものか? 『丑寅日本記』の記述が根拠になっているとすれば、これはでたらめである可能性が高い。それと関連する安倍一族が持ち去ったご神体が帰ってきたことには一言も触れていないのは、不思議だ。もっとも祀られている青銅製のご神体は素性が怪しいなどと書けるものでもないだろうが。

 

田沢湖町がまんまとのせられた、この事件はどんないきさつで起きたのか。前回の繰り返しになるが、もう一度確認しておこう。

斉藤さんによると。こうだ。

遷座式(1992年)の五年前、1987年に新青森空港開港記念と銘打って、『安倍・安東・秋田氏秘宝展』なるイベントが五所川原市で開かれた。そこに田沢湖町の町史編纂室の職員が来ていたことから、和田家文書と田沢湖町役場の接点ができあがる。何故、秋田県から五所川原にわざわざやって来たかは不明である。和田が招待したのかも知れない?

このガラクタが並べられたという特別展の中身は、その後、田沢湖町で開かれることになる『東北王朝秘宝展』とほぼ同じであった。 ガラクタだが、和田が恭しく由緒を語り、それらしく装ってならべれば、なんとなく秘宝に見えたのだろう。何しろ疑うようなそぶりを見せると和田は、恐ろしく怒ったという。

 

そして、四柱神社のある生保内地区に関する「新史料」が出てきたのは、『安倍・安東・秋田氏秘宝展』の翌年の1988年。さらに不思議なことに、1991年にはより詳しい新史料である『丑寅日本記』が見つかったとして、和田がわざわざ田沢湖町まで持参した。それがそのまま『田沢湖町史資料編』に収録され、遷座式の根拠ともなった。  

当時、田沢湖町の関係者には和田から次々と関係文書が送りつけられてきた。箔づけのために、古田教授が外三郡誌を賞賛する講演を行ってバックアップしていたことは先に説明した。

 

和田が、四柱神社のことを知ったのは、青森県五所川原田沢湖町、町史編纂室の職員と会ったときなのか、それとも田沢湖周辺は、安倍貞任らの「前九年の戦」役の場であり、「後三年の役」の清原氏の支配地であったことを知っていたのか?

どちらにせよ、後から見ると、これはすべて調べ尽くされ、安東氏につながる「…秘宝展」から『丑寅日本記』発見と遷座式に至る一連のプロジェクトがあらかじめ準備計画され仕掛けられたものと見えるのである。和田が田沢湖町と触れた瞬間から、組み上げられていった物語であり、計画だったことはほぼ間違いないという人もいるという。それにしても、こういう壮大な嘘を思いつく知性には並々ならぬものが感じられる。

さすが吉幾三という異才を生み出す土地柄である。

 

その「遷座式」の実況を斉藤さんがまるで見ていたような新聞記者らしからぬ名文で表現しているところがある。

 

「話しは1992年8月8日秋田県東部の田沢湖町に遡る。

いつもなら山間の深い闇に沈み、音一つしない生保内地区が、その夜だけは異様な興奮に包まれていた。道の辻辻にはかがり火がたかれ、大勢の住民が沿道にずらりと並んでいた。中には、両手を合わせ拝むような仕草を見せるお年寄りもいた。・・・・・・

午後八時半。ほら貝が鳴り響き、たいまつが怪しく揺れる中、平安絵巻を思わせる鎧と白装束に身を包んだ男たち十五人が姿を現す。一行の中程には神輿が据えられ、「ご神体」が大切に祀られていた。御輿が向かう先は、生保内地区に古い言い伝えが残る四柱神社。一行は二十分ほどで、こんもりした森のなかに広がる境内に到着した。侍大将にふんする先導役が、鳥居の前に張られたしめ縄を威勢のよい掛け声とともに切り落とす。境内のかがり火が一段と燃え盛った。  

そのかがり火を前に、稚児役の少女が御輿から厳かに御神体を取り出す。氏子ら住民の視線が一斉に御神体に注がれる。御神体は二十センチほどの青銅製で、住民の目には仏様のようにも映った。  

少女は神社の階段を慎重に一歩、また一歩進む。そして、木目も新しい神殿にうやうやしくささげると、儀式は最高潮に達した。先導役が高らかに宣言する。 「ここに鎮座し、われわれをお守りください」  

御神体が九百三十年ぶりに、遠く青森から帰ってきた瞬間だった。それまで神官姿で儀式全般を指揮していた初老男性の目が異様に輝いた。

彼は腰に刀まで差す入念な出で立ちで、この儀式に力が入っていることは誰の目にも明らかだった。それもそのはず、奉納されたご神体は彼が責任者を務める五所川原の石塔山荒覇吐神社からはるばる運ばれたものだった。」(斉藤光政. 戦後最大の偽書事件 「東日流外三郡誌」 )

 

和田喜八郎が、神職の白装束で腰に刀まで差して、一世一代の大芝居を打ったのは大成功だった。ご神体がどう見ても仏像にしか見えないと言うことから多少疑いを持った人がいなかったわけではないが、このときは和田が決めた段取り通り、儀式は厳かに執り行われ、遷座の催しには誰もが満足した、ようだ。

この遷座式のために氏子たちが集めた費用は120万円余だったらしい。

ここでも、和田の演出家としての才能には並々ならぬものがうかがえる。

この後が実に面白い。

 

遷座式の後、石塔山荒覇吐神社に御礼参りをしようと田沢湖町の氏子代表五人が飯詰山中を訪れる。夜中に神社で神事が行われるというので、バスの中で仮眠を取って待っていたところへ、ようやく探し当てたという態で人がやって来た。自分たちは、岩手県山田町の僧とイタコだが、神様のお告げがあるのでそれをお伝えしに来たという。

 

四柱神社氏神、荒脛巾太郎権現がイタコの口を通して現れ、このたびは、氏子たちのおかげで無事本宮に帰ることが出来て非常に喜んでいる。これからは皆さんの安泰と子孫繁栄のために尽くすと告げ、何度も御礼をいったという。また、イタコの口から八幡太郎義家が現れて、前九年、後三年の役では安倍一族をさんざん痛めつけたことを氏子たちに謝り、これからは皆さんを守護すると約束して帰った。

 

これを読んで、僕は大笑いをした。

和田喜八郎の「演戯性」が遺憾なく発揮された出来事と言ってよいのではないか?

夜九時の真っ暗な山の中である。氏子たちはバスの中、とはいえ、外の暗がりから聞こえてくる、うなるようで判別つきにくいイタコのご託宣は、本物らしく聞こえたに違いない。源義家が登場して謝罪したというのには思わず吹き出してしまったが、その場で聞かされたものは、古代の将軍の言葉が聞けて大いに満足だった、かもしれない?

それにしても、何故山田町なのだろう?盛岡の遥か東の海岸線にある港町から、津軽の山の中にはるばるやって来たわけは何だったのだろう。あるいは『丑寅日本記』に関連の記述があるのだろうか。

 

このお礼参りは、和田が仕掛けたものだろう。

遷座式の大成功に気を良くした和田が、なお田沢湖町を惹きつけておこうとしたのだ。例の縄文時代の遮光式土偶を持ち込むのはこの二年後であった。

 

田沢湖町遷座式の前、1987年に新青森空港開港記念との『安倍・安東・秋田氏秘宝展』なるイベントが五所川原市で開かれたと書いた。これはまた五所川原市立図書館10周年記念行事でもあったというから、和田は五所川原市にも食らいついていたらしい。

このとき、のちに発見される『丑寅日本記』の信憑性を補(おぎな)うような出来事があった。

1987年7月、安倍晋太郎・晋三親子と岡本太郎が、互いの先祖、安倍氏の墓として石塔山荒覇吐神社を訪れ、参拝したという。いまでも参拝の記念碑が残っているらしい。この時期はまだ、「東日流外三郡誌」に疑義が出されてはいなかったから、政治家親子はこの神社の由来を確かめもせずに本州の端っこの山の中まではるばるやって来たのだ。

おかげで、ただの水と山の神を祀る祠だった、「石塔山荒覇吐神社」は、愈々箔がついて、それらしくなっていったのである。

 

 

話が、偽書の存在というとんでもない方向に進んでしまった。

そろそろ、「安東氏という謎」に戻そうと思う。

 

ここまで、藤崎町が「浦」だったということに疑問を持ったので、それは何が根拠となったのか、その資料を調べてみようという気になったのがきっかけだった。

すると、1948年頃に発見されたという、いわゆる和田家文書なる厖大な文書の中の「東日流外三郡誌」がその元になっていることが分かった。追いかけてみると、それを市浦村が村史の資料編として刊行したことによって、真贋論争を引き起こしたが、1990年代までは、はっきりとした結論が出ないまま、一部では真書と信じられてきたようだった。政治家の安倍晋太郎、晋三氏が石塔山荒覇吐神社を参拝した1987年頃には、学者の世界はともかく、明らかに一般の世間では論争があることすら知らなかったと推察できる。政治家が何の疑いも持たず、本州最北端の山の中の神社を訪ねたというのがその証拠であろう。

 

僕が、うわさ、つまり、十三湊で繁栄した安東氏が津波に襲われ一夜にして跡形もなく流され滅びてしまったという噂を聞いたのが、いつだったか記憶にないが、実は、これも「東日流外三郡誌」に書かれていることのようだった。いつのまにか、すり込まれていたくらい、その影響は深く広く浸透していたというべきだろう。他にも「秋田、安東氏研究ノート」がそうだったように、「東日流外三郡誌」の引用であることが常識と化して流通していることが存在する可能性は高いのではないかと思った。

2000年前後になって、市浦村富山大学人文学部考古学教室に依頼して十三湊の発掘調査を何回か継続的に実施している。市浦村は、1975年から刊行された「村史」に対する疑いを自ら晴らす責任を感じたからに違いない。それだけ「安藤氏」については、分からないことだらけであったということだろう。何回にもわたって行われた発掘調査の報告書にザッと目を通したが、調査の徹底と安東氏の繁栄ぶりは想像以上であったことが分かる。

 

これ以降はインターネットの世界が急速に拡がり、斉藤さんの調査報告はもちろん、情報にアクセスすることが容易になったせいもあって、偽書であることはほぼ一般にも認定されていると言ってよい。とはいえ、一部では未だに和田文書を公開しているサイトもあり、関心は根強いといってもいいのではないか。

これは斉藤さんも言うように、古代史への尽きない興味に対して、和田文書の内容が、こうあればいいのにと言う潜在的な願望に応えた形で構成されているからかもしれない。和田喜八郎は、それを巧みに利用し、金に換えていった天才的な詐欺師だったというべきだろう。

 

僕は国史の専門家ではないが、一応「史料批判」は、歴史を語るときは必須条件と思っていたので、つい脇道にそれてしまった。脇道で垣間見えたことは、歴史資料というものは、思うほど多くはなく、その流れは、あたりまえかもしれないが、推定でつないでいくしか方法がないものだということであった。

 

 

ここで、安藤氏の行方をたどるために、先に取り上げた「続群書類従」の記述まで、遡行しよう。

「小太郎季俊(則任の孫、季任の子=安倍頼時から数えて四代目)は文治五年(1189年)奥州合戦(平泉藤原氏源頼朝の戦い)の時、頼朝の幕下に属し、その子安藤季信は津軽守護に任ぜられた。」(弘前大学学術情報リポジトリ「東水軍史序考」佐藤和夫)とあるが、頼朝はこれより前、1185年に朝廷から「守護・地頭の設置」の権利(文治の勅許)を得ているから、平泉攻めの後、参戦した安藤季信を津軽一帯の守護にしたのだろう。

 

藤崎町史」によると、同じ文治年間(1185年から1189年)の頃、十三湊周辺は十三藤原氏初代秀栄(奥州平泉藤原氏三代秀衡の弟)が福島城を築き、中央統治の力がおよばない独自の政権を確立し、繁栄していた。しかし、三代秀直(ひでなお)の頃、執権・北条義時(北条家二代)が十三湊を直轄地にしようと、 安東貞季(さだすえ)を外三郡(津軽半島)の蝦夷管領に任命、貞季はその拠点として福島城の北方・小泊に、城柵を築いた。 この貞季が津軽守護、安藤季信から数えて何代目にあたるのかは、調べていない。いずれにしても、このときはまだ、安藤(東)氏は十三湊へ進出していない。

 

ところで、小泊とは、十三潟の北、津軽半島の真ん中辺りから日本海に突き出た小さな半島にある港で、北に開けたわずかな平地は山に囲まれた天然の城柵といってよいところだ。福島城から見たら、目の上のたんこぶのような位置にある。

 

僕は、学生の頃、アルバイトでペプシコーラのルートカーに乗っていたことがあったが、その仕事で小泊に行ったことがある。

半島の付け根の山道を横断して、北の方角に降りていくと、林の隙間から突然、鏡のように静かな海面が現れる。それは小さな漁港だった。昼時で、商売先の家の玄関で弁当を使わせてもらうことにして、上がり框に坐っていたら、奥から家の人が何やらお盆に載せて運んでくる。小さな丼の水の中にサイコロに切ったものがたくさん入っている。なにもないけど、飯のおかずにといって置いていった。一口食べてみる。水はただのうすい塩水だった。クリーム色の賽の目の身が何かの貝だとすぐに気づいた。アワビの水貝というものを生涯初めて口にしたのがその時だった。あの夏の昼下がりに味わった冷たい歯触りの美味は、五十年以上前のことなのに、いまでもありありと思い出される。

小泊といえば、フォークシンガーの三角寛が生まれたのも、ここだ。吉幾三といい津軽はユニークな音楽人を輩出する。

 

戻ろう。

小泊に城柵を設けたことに秀直は激怒し、早速これを攻め落とし、その後、貞季の居城・藤崎城に向けて進軍した。寛喜元年(1229年)、両氏は平川沿いの萩野台でぶつかる。この十三藤原氏と藤崎安東氏の戦いを「萩野台の合戦」という。当初は十三藤原軍優勢だったが、大雨による増水により立ち往生していたところへ、 曽我氏が加勢し、背後から奇襲をかけたことにより形勢が逆転。13日間続いた攻防もあっ けなく終わり、藤崎安藤氏が勝利する。

以上のような記述が「藤崎町史」には見えるが、根拠になる資料がなにかについては分からなかった。

 

「萩野台の合戦」で勝利した安藤氏は、1229年以降、藤原氏にとって代わって、十三湊に進出したのではないかと推測されるが、十三湊を支配した時期については諸説あり確定していないという。

 

「萩野台の合戦」とは別に、「北畠顕家安堵状」によると、この鎌倉末期から南北朝時代にかけての安東氏の支配領域は、陸奥国鼻和郡絹家島、尻引郷、片野辺郷、蝦夷の沙汰、糠部郡宇曾利郷、中浜御牧、湊、津軽西浜以下の地頭代職となっており、現在の青森県地方(=津軽半島および下北半島)のうち八戸近辺を除く沿岸部のほとんどと推定されている。この中に十三湊も藤崎も見当たらないが、湊、津軽西浜がそれだという説もあるらしい。具体的な記述が見られない事情についてはよく分かっていないという。

なお、南部氏はすでに八戸近辺に拠点を築いている時期であり、その関係についてもこの時期はっきりとはしていない。

 

記録によると、1268年(文永5年)になって、この地方のエゾ(蝦夷)が、蜂起して、代官職である安藤氏が討たれるという事件が起こる。原因は、執権北条家の得宗権力の拡大で、収奪が激化したことにより、土着の民が反旗を翻したことにあった。また、日蓮宗の日持ら僧による北方への仏教布教が進んだことや、勢力を拡大しようとする元朝が盛んに樺太アイヌ征討を行っていることが遠因であったことが指摘されている。 

 

「萩野台の合戦」のあと、十三藤原氏に代わって十三湊に安藤氏が入ったことは確実だが、その実態は、2000年になって進んだ市浦村の発掘調査(富山大学人文学部)や国立歴史民俗博物館が行った発掘調査によって、次第に明らかになっている。

 

また、安藤氏が歴史に登場する事件が、1318年(文保2年)に起こる。以前から続いていたと見られている蝦夷代官・安藤季長(安藤又太郎)と従兄弟の安藤季久(安藤五郎三郎)との間の内紛に、1320年(元応2年)出羽のエゾの再蜂起が加わった。内紛の背景には、本来の惣領であった五郎家(外の浜安藤氏)から太郎家(西浜安藤氏)に嫡流の座が移ったことがあるとする見解がある。

 

 1322年(元亨2年)、紛争は得宗公文所の裁定にかけられたが、『保暦間記』等には、内管領長崎高資が対立する二家の安藤氏双方から賄賂を受け双方に下知したため紛糾したものであり、エゾの蜂起はそれに付随するものとして書かれている。

 1325年(正中2年)、北条得宗家は蝦夷代官職を季長から季久に替えたが、戦乱は収まらず、却って内紛が反乱に繋がったと見られている。(なお『諏訪大明神絵詞』には両者の根拠地が明確に書かれていない。季長は西浜折曾関(現青森県深浦町関)、季久は外浜内末部(現青森市内真部)に城を構えて争ったとする説と、その反対であるとする説がある。)深浦町は、十三潟の遙か南、秋田県境に近い港町であり、そこから青森市までという広い版図の中を安東氏が治めていたことになる。

 

その後も季長は得宗家の裁定に服さず、戦乱は収まらなかったため、翌1326年(嘉暦元年)には御内侍所工藤貞祐が追討に派遣された。貞祐は旧暦7月に季長を捕縛し鎌倉に帰還したが、季長の郎党や悪党が引き続き蜂起し、翌1327年(嘉暦2年)には幕府軍として宇都宮高貞、小田高知を再び派遣し、翌1328年(嘉暦3年)には安藤氏の内紛については和談が成立した。和談の内容に関しては、西浜折曾関などを季長の一族に安堵したものと考えられている。

 

 

この安藤氏の乱(あんどうしのらん)は、御内人の紛争を得宗家(北条家)が処理できずに幕府軍の派遣となり、更に武力により制圧できなかったことは東夷成敗権の動揺であり、幕府に大きな影響を与えたという見方が定着している。後世に成立した史書においては、安藤氏の乱、エゾの乱は1333年に滅亡する幕府の腐敗を示す例として評され、幕府衰退の遠因となったとする見解がある。

 

鎌倉時代後期から室町時代には、安藤氏の中に、南下し秋田郡に拠った一族があり、「上国家」を称した。対して、津軽に残った惣領家は「下国家」と称する。下国家は宗季以降5代にわたり続き、南北朝時代には南北両朝の間を巧みに立ち回り、本領の維持拡大に努め、室町時代初期にかけて勢力は繁栄の最盛期を迎えた。そうした中、安藤氏は、関東御免船として夷島を含む日本海側を中心に広範囲で活動する安藤水軍を擁し、しばしば津軽海峡を越え夷島に出兵し「北海の夷狄動乱」の対応にあたっていたという。

 

しかし下国家は最盛期後間もなくの15世紀半ば頃、東の八戸方面から勢力を伸ばしてきた南部氏に十三湊まで追いつめられその後夷島(北海道)に逃れた。南部氏は、時の室町幕府に巧妙に取り入り、領土を安堵されつつ地位を築いていったもので、さらに秋田の鹿角郡田沢湖から横手辺りまで進出しようとしていた。つまり、安藤氏が築いた版図を遥かに超えて出羽領まで占領しようとしていたのだ。

十三安藤氏は、いったん室町幕府の調停で復帰したものの再度夷島に撤退し、夷島から津軽奪還を幾度も試みたが果たせなかった。ここで、十三湊を拠点として栄えた安藤氏は、北海道で命脈をつないだが、その後消滅する。 

 

「北のまほろば」で、安藤氏が十三湊から姿を消したとあるのは、一族がもともと植民地のようにして領有していた北海道の渡島半島に逃れた時のことであった。

 

 

前回、「北海道で命脈をつないだが、その後消滅する。」と書いたが、実際は、北海道に逃れたあと、十三湊、安藤康季・義季父子が捲土重来とばかり、北海道渡島半島において軍勢を調え、津軽西浜に上陸、南部氏に戦いを挑んでいる。

しかし、そのさ中、岩木山麓で康季が病死し、義季もまた攻め込まれて自刃して果て、義季に子がなかったため、十三湊下国安藤氏嫡流の血が途絶えたのであった。時に、1453年(「応仁の乱」の十年ほど前になる)、およそ200年にわたる十三湊を中心とする安藤氏の繁栄に一旦終止符が打たれることになった。

 

「北のまほろば」が書かれたとき、安藤氏嫡流がこのようにして滅んでいたことを司馬遼太郎は認識していなかった。

安藤氏には、さらに、この続きがあった。

 

新羅之記録」(江戸時代に松前藩が編纂した自藩の歴史書)によれば、それより少し前、安藤一族の内、南部に攻め込まれて敗退し捕虜となった安藤政季は、母親が南部と縁続きだったことにより、下北半島の田名部に土地を与えられて、留まった。南部の人質、または傀儡である。南部の狙いは、岩木山麓で討ち死にした康季・義季父子に代わって政季を十三湊下国安藤家惣領として、これを支配下に置くことで、安藤氏が足利氏より獲得している地頭領の代官職および、蝦夷沙汰職代官の名誉と大きな利権を(間接的に)手に入れることが出来るというものである。

 

ところが、安藤政季は、安藤宗家の安藤康季・義季父子の死を伝え聞くと、南部の支配から逃れ、安藤氏再興を祈して、1454年、蠣崎蔵人など少数の重臣を連れて密かに田名部(宇曽利)を脱出、対岸の夷島へ渡った。「安藤氏 下国家四百年ものがたり」(森山嘉蔵著2006年、無明舎出版)によると、夷島の沿岸部約十カ所に館を構えて守っていた、かねて安藤氏由縁の守護豪族に安藤宗家の継承を宣言する。そして、夷島の支配拠点を調えて、対立するアイヌなどへ備えることになった。

 

ところで、まえに「鎌倉時代後期から室町時代には、安藤氏の中に、南下し秋田郡に拠った一族があり、「上国家」を称した。』と書いたが、それは、応永初期(1400年頃)のことで、夷島(渡島半島)でアイヌの反乱(度々起きていた)を鎮圧した安藤氏の一族、下国家が、その功績により秋田湊一帯及び夷島日本海側の支配権を室町幕府から委ねられ、湊家=上国家を興したとしている。

つまり、下国家が北海道に逃れる前に、安藤氏の版図が拡大した時期に、すでに安藤氏の一部が秋田地方に入っていたと言うのである。また、「安藤氏 下国家四百年ものがたり」(森山嘉蔵著)によると、当時、出羽国においては群雄割拠の騒乱状態にあり、手を焼いた時の室町幕府が十三湊安藤氏の一族、安藤鹿季に出羽を治めるよう命じた。安藤鹿季は二百騎を連れて小鹿島に、あるいは雄物川河口、又は土崎湊に拠点を築いて上国湊安藤氏を名乗ったというが、上述の「秋田『安東氏』研究ノート」(渋谷鉄五郎)によると、其れ以前に安藤氏の気配は小鹿島やその周辺にあり、鹿季が拠点とした場所もはっきりしないらしい。いずれにしても上国家の氏祖は鹿季となっており、このころ、南部の勢力の攻勢が激しく、孫惟季の代になっても止まなかった。

 

「秋田『安東氏』研究ノート」には、例の『市浦村史」から取ったらしい小鹿島を中心に深浦から雄物川河口までの地図を引用して場所を特定しようとしたり、著者の故郷である土崎に対するやや過剰な思い入れなどにより、冷静さを欠いているきらいがある。結局、安藤鹿季が土崎湊安藤氏を開いたということだけは、事実らしい。

この上国湊安藤氏が土崎湊に拠点を置いたのはいつ頃のことか分からないが、のちに、男鹿半島の付け根、水戸口付近の脇本という小高い丘に大きな城を構えて居たのは、戦国時代の名城として城跡が残っていることをみれば、平地の海辺で守りにくい土崎に長くいたとは考えにくい。

 

ともかく、南部の攻勢に手を焼いた鹿季、そしてその孫、惟季は、十三湊安藤氏の惣領をつなぎ、いまは夷島に逃れている安藤政季に書状を送り、出羽に来て宿敵南部と戦い恨みを晴らそうではないかと誘った。(「安藤氏 下国家四百年ものがたり」)

蝦夷にいて、南部と渡り合おうにも直接海路で軍勢を運ぶのは不利である。すでに秋田で南部と戦っている一族といっしょに陸路南部へ押し上げれば勝機がないわけではない。と、考えたかもしれない。

 

安藤政季は、自らの重臣(代表的な人物、蠣崎蔵人、武田信宏、河野政通、相原政胤、いずれも後に、蝦夷で大成)にはかり、出羽移住を決断するが、その時事件が起こる。

夷島におけるアイヌの反乱、コシャマインの戦い(1457年)である。(二百年後に書かれた文献にあるという。)

 

アイヌは、鉄を持たない民であった。鉄器を手に入れるには倭人と取引をしなければならならない。

僕が小学生ぐらいのときに、鉛筆など細木を削る道具をマキリといった。二つ折りの刃渡り10センチほどの小刀で、今の言葉でいえばナイフである。

マキリがアイヌ語だったことは今回初めて知った。(ただし、語源は日本語らしい)アイヌ語のマキリは、もう少し用途が広く「短刀」を意味するようだ。

ある時、アイヌの青年が、今の函館付近にあった倭人の鍛冶屋に、このマキリを買いに来た。安いの高いの品質がどうのと言い合っている内に、倭人がこのマキリを使ってアイヌの青年を刺し殺してしまうという事件が起こる。

この殺人事件の後、首領コシャマインを中心にアイヌが団結し、1457年5月に、両者の間にくすぶっていた敵対関係があらわになり、アイヌコシャマインを首領に、安藤氏および室町幕府の軍勢と戦争状態に入る。

胆振鵡川から後志の余市までの広い範囲で戦闘が行われ、事件の現場である志濃里に結集したアイヌ軍は小林良景の館を攻め落とした。アイヌ軍はさらに進撃を続け、和人の拠点である花沢と茂別を除く道南十二館の内十までを落としたものの、1458年(長禄2年)に花沢館主蠣崎季繁(安藤家の重臣上ノ国守護職)によって派遣された家臣武田信広によって七重浜コシャマイン父子が弓で射殺されるとアイヌ軍は崩壊した。

アイヌと和人の抗争はこの後も1世紀にわたって続いたが、最終的には武田信広を中心にした和人側が支配権を得た。しかし信広の子孫により松前藩が成った後(安藤氏の痕跡はこのような形で残った)もアイヌの大規模な蜂起は起こっている。

 

この騒動が一段落したのを見て、安藤政季は、出羽転住を決め、軍勢を連れて、出羽の国、小鹿島へ上陸する。(政季の転出はこの一年前に行われたという記録もあるらしい。)

 

 

男鹿半島の先端部分には噴火口のあとがいくつもあり、ここは地下からマグマが噴出して日本海の沿岸にできた島なのだということが分かる。その後、北の米代川から流れ下った砂が、海流の関係なのだろう、島と陸地の間に堆積し長い砂州でつながることになった。一方、南側は雄物川からのびた砂州が、海流が弱く完全にはつながらなかったため、わずかな開口部をもって島と陸地の間の海が残った。そこへ河川が流入してできたのが、広大な汽水湖八郎潟で、戦後悪化していた食糧事情解決のためにこれを干拓して農地にするまでは、琵琶湖に次ぐ我が国第二の大きさを誇る湖だった。

 

昔、このあたりを小鹿島といった。

この小鹿島から『後三年の役』に参戦した豪族がいたことは前に書いたとおりで、早くからここを拠点にした者がいた。

おそらく、雄物川河口から八郎潟の汽水域、小鹿島にかけての領域に拠点を置いていた上国家に対して、安藤政季は、それより北、南部と手を組んでいた葛西秀清が盤踞する地域を狙った。北は深浦から白神山地米代川河口、八郎潟にかけて、河北千町(河北郡の千町歩という意味か?)と言われる広大で豊かな土地である。

米代川河口から十キロほど入ったところの支流、檜山川を遡上すると標高百五十メートルほどの小高い丘があらわれる。

安藤政季はここ桧山を拠点と決めた。

このころから、理由はよく分かっていないらしいが、政季は、安藤を安東とあらためたという。

 

「安東氏 下国家四百年ものがたり」によると、

この安東政季は、毀誉褒貶の多い人物で、葛西秀清との死闘のさ中、冬の白神山地を越えて、南部に奪われた氏祖の地、藤崎奪還を目指して同族を攻撃する無理をしたり(桧山に敗退)、部下を理由もなく処刑するなど安東氏棟梁としての「信」を問われる行動があり、ついには白神山地を流れ下る藤琴川が米代川と合流する辺りで家臣の長木大和守の謀反にあって倒れる。

あとを継いだのは、嫡男、安東忠季である。それから七年の戦いを経て、葛西秀清を滅ぼし、桧山の霧山に城郭などを築いて城としての形を整えはじめる。世は戦国時代の始めであり、日本中が血で血を洗う国盗り物語で溢れていた。そうした中、忠季は、河北千町という広大な領地を治めるようになったのである。こうして、領地が安定したので、桧山安東家の菩提寺として1504年頃、日照山国清寺(いまは廃寺、その時期は明らかでない)を建立している。

 

その後、下国桧山家四代は、尋季の嫡男、舜季(きよすえ)が継いでいる。ここに、湊上国安東鹿季九代の孫堯季の娘が嫁いできたとの記録がある。これは、時代を経るに従って、桧山家の勢力が小鹿島付近で、上国湊家の所領を侵すなど小競り合いがあった状態を解消し、両家融和を図るために取られた措置であった、と考えられている。

舜季は、蝦夷地で起きた紛争を解決し、松前守護職である蠣崎氏を臣下として、この地の支配権を間接的ながら確立している。蝦夷地の統御態勢を固めた舜季は、1553年桧山城で没する。

 舜季のあと継いだのは、嫡男で、その時十五才の愛季(ちかすえ)であった。

 

その頃、一方の湊安東堯季は、足利将軍の御扶持衆で、左衛門佐に任官する国人大名であった。(中央政権に一目置かれる存在?)堯季は、足利幕府管領の細川家から数多い奥羽の諸将のうち、七人だけの「謹上書衆」(書状の最初に「謹上」を付ける礼儀)に遇されてもいた。堯季には嫡子がなく、下国桧山家から養子として愛季の弟を迎えている。

 

安東愛季は、戦国の世も最盛の頃に、桧山屋形を継いだことになる。

継承して三年後の弘治二年(1556年)、愛季は海に乗り出すことにして、まず手始めに、家臣の清水治郎兵衞に命じて能代の湊づくり、町づくりに手をつける。能代の湊は米代川の河口にあったものと思われるが、一定程度の大きさの船が寄港するには、おそらく浚渫工事が必要だっただろう。

 

そして、能代湊の整備を終えると日本海に進出した。庄内の「大宝寺屋形」の武藤氏の一族、砂越入道也息軒の娘を正室に迎え、永禄五年(1562)には也息軒を通して、越後の上杉謙信と親交した。また、越前の守護大名朝倉義景にも使者を出し、日本海交易の道筋を付ける。このことにより、小鹿島、能代沖を航海する庄内、越後、越前の商船の安全と海上の交通交易を水軍力を持って保障するようになり、土崎湊、能代湊に商船の出入りが頻繁になったのである。

 

材を蓄え戦力の充実を図った愛季が、次に企てたのは領土を拡張することである。

桧山から見て北東の米代川中流域から上流域にかけて拡がる「比内千町」といわれる沃野、さらには米代川、長木川の秋田杉、そして多様な鉱物資源を産出する北部比内地方がある。それを手に入れるにはここを支配している比内郡主、浅利則祐を排除する必要がある。

安東愛季は、浅利則祐と不仲で領主の座を奪おうと考えていた弟の勝頼を手懐け、永禄十年、勝頼の手引きで、則祐を襲った。この攻撃で、則祐を自害に追い込むと、浅利家の当主に勝頼を据え、次いで臣下にした。こうして、愛季は比内郡の統括権を手に入れ、事実上この地域(大館を中心とする)を桧山安東家の領有としたのである。 

 

愛季が次ぎに目指したのが、比内郡の東に隣接する鹿角郡攻略である。ここは、南部領であった。先祖以来、執拗に南部氏の攻撃を受けてきた安東氏にようやく訪れた復讐の機会である。

愛季は、比内郡扇田城(大館の南)に入って鹿角攻めの戦略を構築しはじめる。まず、鹿角郡内の地侍土豪に浸透し、密かに反南部氏の同盟を結ばせる。さらに、比内の浅利勢、阿仁地方の嘉成右馬守勢と図って、南部領侵攻の準備を調える。

そうして永禄九年(1566年)八月、鹿角郡境の巻山峠を越えたところに、鹿角の芝内勢が合流、出羽の大軍が南部領になだれ込んだ。

 

南部領を守備する鹿角郡の各城館勢の救援に、三戸南部晴政岩手郡内の国人領主に出陣の檄を飛ばす。激しい攻防合戦の中で、南部方は石鳥谷城、長峰城が落城、ようやく残った長牛城に立てこもり、ここで越年した。

年明けの永禄十年二月、愛季が率いる桧山軍六千の大軍は、積雪を侵して長牛城を攻撃。これを見た南部晴政は一族一門の南部北氏、南部東氏などのすべてを動員し、大援軍を繰り出して反抗する。それを見た、安東勢は直ちに全軍の兵を引いた。この素早い対応も戦術の内であった。

こうして、この年の十月、三度目の攻撃によって、ついに長牛城を陥落させ、鎌倉末期・南北朝期以来の南部領鹿角郡を安東領とした。これによって愛季は、先祖康季の屈辱を晴らし、戦国武将として近隣にその武威を示したのである。

大南部の面目を傷つけられた南部晴政は、翌永禄十一年三月、継嗣の田子信直、その父で剛勇の誉れ高い石川高信、一族の勇将九戸政実を副将とし、南部の総力を挙げた一大軍勢を整えて鹿角に攻め入った。この大軍を前にしては、安東勢力に荷担した鹿角の土豪地侍も防戦のしようも無く、次から次へと降伏し、鹿角郡は一年にして取り戻されたのである。

せっかく占拠した鹿角郡を一年で取り戻されたとはいえ、三度にわたっての永禄の鹿角合戦こそ、北奥の雌雄と目される糠部の南部晴政、出羽安東愛季が、一族の面目をかけての大激戦であった。

 

ところで、戦国武将として評価されるには朝廷から下されるそれなりの官位が重要であったが、京都での公家工作は、室町時代以来「京都後扶持衆」である湊安東家の任務であった。「言継卿記」(戦国期公家研究の重要資料)の山科言継は、戦乱で凋落している朝廷のために、地方武将からの献上品の進貢に働き、その代償として地方の人たちの欲しがる官位を与えることに走り回っていた公家である。

永禄十二年、愛季は浪岡北畠家の権威を借りて、家臣の南部弥左衛門を上洛させ、山科言継に近づけさせた。こうして、権威の中心である京都で、北奥に位置する桧山屋形安東愛季の名が公家の間に知られていった。

 

京都での愛季の評判は湊家の家臣に大きな動揺を与えずにおかなかった。また愛季の兄弟がふたりも続いて湊家の当主の座(養子)についていることも不安要素であった。

このような事情で、湊家の危殆を感じてきた家臣の一部が、永禄十三年、豊島城主の畠山刑部将補重村(畠山重忠の末裔)を先方にして、当主茂季(愛季の実弟)への謀反を起こした。

この報を受けた愛季は、急遽して豊島城の畠山重村を攻めた。桧山精兵の襲撃に一蹴された重村は、妻の実家である由利郡の仁賀保氏を頼って逃げ込んだ。湊家の桧山攻撃抑制もあって、愛季は、弟でもある湊家当主の茂季を豊島城に移して、南方面からの攻撃の守備とし、自らが湊城にはいって湊安東家の実権を掌握した。桧山安東氏が湊安東家を吸収する形での統一ということであった。

 

元亀四年(1572年)七月十九日、織田信長は自ら将軍位に付けた十五代足利義昭を京都から追放した。天下の政権は名実ともに信長の掌中に握られようとしていた。全国の武将は、いまや信長の一足一投から目が離せない時代になっていた。(元亀四年七月天正改元

天正二年、愛季は北方産の駿馬と弟鷹(だい、大鷹の雌)を献上した。日本海は出羽と都を繋ぎ、情報伝達と物品運搬の道でもあった。使者に立つのは、愛季の外交役南部弥左衛門である。

その二年後の天正四年、「去々年弟鷹十聯、同去年ニ居到来、誠ニ御遼遠ノ懇志悦斜ナラス候」とあり、さらに添え書きに「御太刀一腰紀新太夫相送り候」とある。信長の満足した感情の表れた返書と、名刀紀新太夫を送られた愛季は、丁寧な御礼書きと北の梅の珍品である上等な海獺の皮を十枚送り届けている。天守閣を備えた居城の安土城を琵琶湖畔に築造して、天下布武を自認している覇者信長への返書は、「去々年御鷹師サシ下サレソノ意ニ及候トコロ御祝着ノ由、今度御書ノ過分に預リ、忝存ジ候。殊ニ太刀紀新太夫之ヲ給リ、末代マデ重宝致スベク候、ナオ羽柴筑前守上聞ニ達スベク候」とある。

つまり、安東愛季は、織田信長と昵懇の仲になっていた。

 

(続く)

 

 

 

秋田空港は、昭和三十六年開港のときは、雄物川河口の海岸にあって、僕は一度降りたことがあったが、滑走路が短い上に、日本海からの強風の影響を受けやすかった。それで、1981年(昭和五十六年)、秋田市の中心から南東二十キロほど離れた山の中を切り抜いて新しくつくった。その少し北に雄物川の支流、岩見川が西に流れている。その川がつくったであろう北の河岸段丘に豊島城があった。いまは宅地の中の空き地で、痕跡は見られないが、戦国時代によくあった土塁をまわした典型的な山城であった。ここから雄物川を南東に遡上すれば、やがて大曲・横手盆地が拡がっている。角館の戸沢盛安や平鹿郡小野寺領、さらにその背後に南部の勢力が控える地域である。

湊上国安東氏は、雄物川河口の土崎湊や小鹿島の脇本城などの拠点を守備する前線として、今の秋田市南東二十キロのここに城を築いた。豊島城である。

この城は、後に安東氏の命運に関わる事件の舞台になった。

 

 

ところで、愛季は、織田信長の後押しもあって、戦国の世に勇猛の名声を示すことになっていく。

天正五年、愛季は、朝廷から「従五位下」の官位を贈られた。先祖に長髄彦という天皇家に反抗した者がいたのは承知の上であった。織田信長の配慮である。明らかに、信長に気に入られたのだ。

信長公記天正七年の条に、奥羽の諸将から続々と献上品が贈られていると記述があるが、それらの使者の接待役を愛季家臣南部宮内少輔がつとめたとあるらしい。翌天正八年(1582年)愛季は、「従五位上侍従」に任ぜられた。

こうしたなか、信長が、家臣にならないかと誘ったことがあった。愛季は、これまで我が家は、他家に仕えたことがない、といってことわったという。信長は、苦笑して済ましたらしい。

 

同じ頃、津軽との接触があった。

元亀二年(1571年)南部氏の一角を担っていた津軽鼻和の大浦為信が、南部氏への反旗を翻した。

石川城(弘前近郊)を襲い、南部高信(津軽総代官)を殺害し、津軽独立を宣言する。ついで、和徳城を落城させ、翌年三戸南部の牙城である平賀郡の大光寺城を攻めたが、これに苦戦していた。

南部氏を攻めている大浦勢に対して、愛季は、天正三年、鹿角の地侍大湯五兵衛昌光に為信への加勢を命じた。当時貴重な鉄砲隊まで派遣するという力の入れようだった。

ところが、南の出羽檜山安東氏の動きを警戒していた大浦為信は、庄内の大宝寺義氏と密約を取り交わし、背後から愛季の津軽侵攻を牽制しようとした。そうした中、天正七年七月、為信は、安東氏と縁の深い浪岡御所(藤崎の北)の公家武将北畠顕村を襲った。不意を突かれ、抵抗する間もなく浪岡は落ちて、北畠顕村とその正室(愛季の娘)は檜山に逃れた。

庄内勢との対応に追われた愛季は、その後、津軽接触したが、押し返され、そのまま檜山の北進の意思は停止した。

 

この年、豊島城を守備していた愛季の弟、茂季(湊安東氏に養子にはいった)が病没した。茂季には通季という嫡男がいて、本来なら湊安東氏を継ぐべき存在だが、愛季は、自分の嫡男、業季を湊城主に据え、湊家の所領を桧山に吸収してしまう。本城の檜山城主には、二男の実季をあて、自らは男鹿の脇本城に入って両家の指揮を執るようになった。通季にしてみれば、叔父のこの措置に対する不満があったが、直ちに何事か起きる気配はなかった。

 

天正九年(1581年)になって、俄に比内の浅利勝頼が反旗を翻した。大浦為信にそそのかされたものであった。ただちに愛季自ら出陣し、勝頼は大館城を明け渡して和睦に応じた。

同じ年、庄内の大宝寺氏が由利郡の討伐を企てて、出陣するにあたり、大浦為信に背後から安東氏を牽制するよう出羽攻めを依頼する内容の手紙を出している。

由利郡は、安東氏と大宝寺領にはさまれた地域で、由利十二頭という豪族たちがいて、離合集散を繰り返していた。安東氏としてはこの緩衝地帯を失うわけに行かない。この由利攻めを聞きつけた蝦夷地の蠣崎季広守護職嫡男慶広(これが後に分かるが、なかなかのくせ者)が援軍を率いて愛季陣営に参加してきた。

戦は一進一退、決着がつかないまま過ぎた。愛季は、天下の情勢を俯瞰して、力のある武将と連合することを考え、これまでまったく縁のなかった、山形の最上義光に、ともに庄内の大宝寺を攻めることを提案する書状を送った。

これに対して、ようやく天正十一年春、最上義光から庄内を攻撃する旨の返書が来るが、その前に、大宝寺勢が、由利郡に攻め込んで、由利衆がこれを撃退する。すかさず安東勢の主力が由利郡になだれこむと、最上勢がこれに応え、さらに仙北郡の小野寺勢も加わり、大宝寺義氏を攻め立てた。このとき突然、大宝寺陣営に内乱が起きる。義氏重臣の前森蔵人が、義氏居城尾浦城を包囲したのである。突然のことで、義氏もなすすべなく、自害して果てる。このとき、愛季は、勢いのあまり、深く郡境を越えて酒田まで攻め込んでいる。

 

このとき、比内の浅利勝頼の動きが怪しいとの情報が入ったため、愛季は急ぎ檜山に戻った。愛季の優れたところは、四方に間者を放って、情報を集めていた形跡があり、そのあたりが並の戦国大名と違ったところとの評価がある。

天正十一年三月一夕、愛季は、勝頼を檜山に招いて酒宴を行った。座は和気藹々と進んだが、突然愛季の家臣が勝頼の首をはねる。一緒に居た嫡男は、慌てて津軽に逃げ込んだ。

庄内屋形の大宝寺義氏を自刃に追い込んだ愛季の名は、出羽南部の庄内にも轟いた。一方、北奥羽の雄、南部信直は、大浦為信による津軽独立、一族の九戸政実による宗家無視(南部氏にはこの類の内紛が絶えなかった)の動きなど南部氏衰退とみられはじめた。これに敏感に反応した陸奥の斯波一族や鹿角の毛馬内氏・花輪の地侍たちが愛季に近づいてきた。

「湊・檜山合戦覚書」という書物が残っているらしいが、そこには「・・・愛季公の時、南部領の内、斯波・雫石・鹿角・花輪伯耆守・毛馬内殿頭なり。これらを従え礼に来たり。仙北は淀川(大曲の北西部)を切り取り・・・」とあり、北奥の諸将は「斗星の北天にあるにさも似たり」と恐れ入っていたという。

 

年々歳々領土を拡大、武将をなびかせてきた愛季だが、天正十年、湊城主にしていた嫡男業季が十六才の若さで病没した。落胆している暇はない、すぐに二男の実季を跡目として湊城に配した。また、同年六月には京の本能寺で、愛季を厚遇していた織田信長が、明智光秀に討たれてしまった。これを山崎で討った羽柴秀吉から挨拶ともいうべき書状が届いている。

 

天正十五年(1587年)五月、角館城主の戸沢盛安が平鹿郡小野寺領の沼館を襲撃した。これは小野寺勢と最上勢が雄勝郡境の有家峠で合戦し、対峙している間隙をついたものであった。この動きがさらに近隣諸郷の六郷・本堂・前田などの国人小領主に独立の野心を抱かせて、出羽仙北は騒然とした様相を呈するようになった。同年、八月、戸沢盛安の動きに抑圧を加えるため、愛季は仙北の淀川に出陣した。盛安は刈和野に陣を構え、この地で三日の間、激烈な戦闘が繰り広げられた。世に言う「唐松野の合戦」である。両軍とも大きな損傷を負った。

この大合戦のさなかに愛季は発病した。密かに脇本城に帰ったが、祈りもむなしくこの城で息を引き取った。剛勇を誇った一方で、絵画をたしなみ歌を詠むという戦国武将には珍しい優雅で心にゆとりある側面を見せた人生だった。享年四十九。

 

愛季のあとを継いで安東惣領家の当主になったのは嫡子、湊城主安東実季である。このときまだ弱冠十三才であった。

唐松野の陣を守っているさなか、秀吉の天下統一を前にした九州攻めのとき、「関東奥羽惣無事令」が発令された。秀吉が天下人として私戦をやめさせる命令を出したのだ。戦国の世が終わろうとしていた。

この令は最上義光を通して奥羽諸将に伝えられたが、まだ徹底しなかった。そして、愛季の死が明らかになるとともに安東実季のまわりがざわめいてくる。

雪のために陣を解いて角館に帰っていた戸沢盛安勢が、愛季逝去の情報を得て、再び刈和野方面へ出陣してきた。明確に、「関東奥羽惣無事令」違反である。しかし、この最中に、秀吉の令が行き渡り、戸沢勢をはじめとする仙北勢が兵を引き上げた。

ところが、この戦場に近い豊島城にいる安東通季の動きが怪しいとみて、実季陣営は動けなかった。通季は、実季のいとこにあたり、本来であれば、父のあとを継いで湊安東家の棟梁になるはずだったが、叔父の愛季が強引に湊家を檜山安東家に吸収合併してしまった。むろん、これを通季およびその家臣は快く思っていなかった。裏で、角館の戸田盛安が通季と通じていて実季討伐を画策していたことが分かると、急ぎ湊城に帰るが、そこを通季の家臣らが包囲した。

実季に取っては、十四才の初戦であった。

湊城は通季らに奪われ、実季は、脇本城に後退した。しかし、脇本城は、まわりに旧湊家の勢力が多く、守りに十分ではないため、実季とその主力勢は、阿仁一帯など北側に味方が多い檜山に移り、ここで籠城することにした。南側は、羽後街道の潟渡(いまの鹿渡)と鵜川に砦を築いて守った。

 

通季と戸沢盛安が集めた軍勢は、南部信直や鹿角の大湯勢、毛馬内勢、五百を含む寄せ集めとは言え、檜山勢の十倍はあった。

実季は、なりふり構わず救援を求め、ようやく由利衆が応じて包囲網の背後から通季勢に襲いかかった。同時に、秀吉政権の重鎮、越後の上杉景勝が実季救援の姿勢に傾くという情報が拡散されると、もともと連携の薄い通季勢の小領主たちは、雪崩を打って、解散、帰郷してしまった。これらの状況を見ていた通季の弟が実季方に寝返る。これまでとみた主軸の戸沢盛安はさっさと陣をとき角館に帰還してしまう。通季は、檜山城外から潟渡と鵜川を経由して八郎潟を逃げたが、実季の家臣に追われ、ついには海路をたどって南部信直のもとに走って、この騒動は終わった。

 

この内紛は、太閤秀吉の通達違反であり、秀吉から実季に出頭命令が下って、所領召し上げ、存亡の危機が迫る。実季は、上杉景勝の縁で、石田三成に使者を送り、取りなしを依頼した。ちょうどこの頃、米沢の伊達政宗会津蘆名義広の争い、庄内における最上義光が抱える紛争があり、それに比較して、安東実季の内紛はものが小さいと判断され、豊臣政権の上杉・石田ラインの斡旋により、秋田本領安堵をされたのであった。

この上杉・石田ラインは、徳川政権になった世では、仇と成すのであるが・・・・・・。

実季は、これを機会として土崎湊を臨む高台に城を築いてそこを本拠とする。 この後、豊臣政権は実季に南部の一角、九戸討伐を命じ(これは短期間に終わる)、朝鮮出兵の間に名護屋城守備を命じたりしているが、これが終わり、檜山に帰還すると、浅利との確執が再燃する。

 

名護屋出陣の費用負担分に浅利の未払い分が見つかり、トラブルになった。浅利は湊家の支配下から独立を狙って中央工作を続けていたのだが、これもその一環であったと思われる。中央から仲裁が入り、不足分を実季が負担することで、いったんは収まった。ところが、津軽の大浦為信に後押しされていた頼平は、この問題を蒸し返して豊臣政権に訴え出た。檜山側に家臣扱されたくないというので、争いは絶えなく、何度も交戦したが、この騒ぎが豊臣中央政権の政治問題化することになってしまう。双方が呼ばれて、吟味された結果、浅利の未払い分が確認され、それにもかかわらず訴え出るとは不届き至極、と言う裁定がでる。ところが不思議なことに、この裁定が出る前に浅利頼平が、大阪城内で急死してしまうのである。

これにより、永年にわたる係争の地であった比内(後の北秋田郡)の領有が確定され、比内を地盤とする浅利氏・嘉成氏の領主権は否定された。

 

そして秋田(南秋田郡)・檜山・比内のいわゆる秋田下三郡に加え、豊島郡(河辺郡)を有する大名として、所領は減らされたが安堵の朱印状は秀吉の手から直接渡された。こうして大館城(大館市)・脇本城(男鹿市)・馬場目城(五城目町)などの要地に功臣・一族を配して、比較的安定した領国支配を築くことになった。

だが同時期に、松前の蠣崎慶広が秀吉に謁見していて、その巧みな工作により、鎌倉以来安東家の被官身分として松前守護職を任じている蠣崎氏(慶長四年=1599年、松前氏と改姓)に蝦夷ヶ島主を認める朱印状が発行され、安東家は四百年間維持してきた権利を誇りとともに取り上げられてしまった。

 

時代の変化を感じ取ったのか、実季は、太閤の奥州仕置後、安東の名をあらためて、古い官職名である秋田城介を号して(後に正式に付与される)秋田氏を名乗ることになった。

 

こうして、遠く11世紀に起源を持つ安倍氏を氏祖とする「安東氏」は「秋田」氏となって、歴史から消えていったのである。僕にとっての「安東氏という謎」もとけて、長かった謎解きの旅も終わった。

 

 

TVで司馬遼太郎の「北のまほろば」のドキュメンタリーを見ていたときに、大学時代、国史専攻の井手有記君からきいた「津軽といえば安東だろう」と言う言葉を思い出し、そういえば、安東氏は十三湊で消えたあとどうなったんだろうと思って、その謎を探しに出かけた旅だった。

 

結局、たどり着いたのは、なんと、僕の故郷だった。

井手君が謎だといったときは、そのことに、まったく気づいていなかった。

猿の惑星」という映画があったが、あれは、たどり着いた惑星にN.Yの「自由の女神」の残骸があったという結末だった。まるで、あの惑星は地球だったというどんでん返しと似て、僕にとっての半世紀前の「安東氏という謎」の答えは、意外にも僕自身の足下にあったのだ。

 

檜山は、僕の生まれたところから十キロも離れていない。

昔から古い城跡(と言われる山)はあったが、その主が安東氏とは知らなかった。いまになって思えば、誰も教えてくれなかったのが不思議である。高校時代、たぶん多宝院というお寺だったのだろうと思うが、その住職の子息に一年先輩がいて、その友人だった先輩に誘われて訪ねたことがあった。訪ねることを母に言ったら、あの寺の廊下は「うぐいす張り」といって、歩くと鳥の鳴き声がするはずだと教えてくれた。「忍びのもの」対策である。古刹という趣で、半日居ても厭きなかったという記憶が残っている。

 

なぜ、檜山の城の主が安東氏であったことを知らなかったのか?

城の歴史さえ、誰も教えてくれなかった。何故なのか?

もちろん、僕の子供の頃は、戦後間もない頃で資料も乏しく、さほど研究が進んでいなかったのだろう。それにしても、我が生まれ故郷にとって、檜山の過去は、歴史の彼方に消え去った幻という印象であった。

 

そのもっとも大きな理由は、関ヶ原のあと、常陸の佐竹氏が秋田氏の所領にに移封され、おそらく玉突きのようにして、常陸の宍戸に転封されたことではないか。「国盗り物語」の時代の最後部を経験した実季にとって、これはかなり納得のいかない措置だったに違いない。しかし、もはや家康に異を唱えられる時代ではなかった。

宍戸に出立するとき同道した家臣はわずか百名ばかりであったという。残された秋田をはじめ県北部の家臣たちはほとんどが、帰農したのだろうという研究がある。時代が変化したと同時にやって来た新しい領主は、古い歴史に対して、自分の物語を上書きすることをはじめなければならない。

檜山には、佐竹氏の一族が入り、戦国の世の記憶は過去へ押しやられた。かくて、江戸期の無風時代が檜山の歴史をますます風化させたのかもしれない。

(ただし、佐竹氏の歴史などもトンと記憶がない)

 

戦国時代の風を色濃く残した性格の実季は、幕府への不満から、一時期遠い祖先の姓、伊駒を名乗ったり、戦国時代の気骨を示すことが多く、幕閣から突如として伊勢国朝熊(三重県伊勢市朝熊町)へ蟄居を命じられた。

不仲であった嫡男の俊季は、あらためて、陸奥三春(福島県三春市)五万五千石に移封され、母親が大御所秀忠の正室崇源院の従姉妹(織田信長の妹の家系)にあたることも幸いして家督継承が認められ、大名、秋田氏として以後幕末、明治までと同地で存続した。

秋田実季は、寛永7年以降約三十年にわたり、伊勢朝熊の永松寺草庵で、長すぎた蟄居生活をおくったのち、万治2年(1660年)、同地にて死去した。享年八十五。朝熊永松寺には、実季の用いた食器などの日用品が現在も残されているという。

 

ところで、前に取り上げた「東日流外三郡誌」だが、これを書いたのは和田喜八郎の先祖で、和田長三郎吉次と三春藩主、秋田孝季という触れ込みであった。この秋田孝季は実季の子孫に当たる実在の人物で、この殿様が、先祖の家系図を調べ上げて幕府へ報告したのは事実である。『秋田家系図』といわれるものを編纂した人である。もっとも、和田長三郎吉次と共著というのはいかにも無理があり、和田喜八郎は、のちに秋田孝季とは土崎在住の別人だといっていたらしい。和田は、このあたりの事情にも通じていたというのは驚きである。

 

一方、佐竹氏は、土崎湊近くにあった秋田氏の居城には入らず、少し内陸に入った神明山(標高四十メートル)に久保田城を整備して居城とした。仙北地方は、角館の戸沢盛安が新庄に移封されたため、角館には横手とともに佐竹の一族が配される事になった。

また、深浦から須郷崎にかけての地域は昔から安東領であったが、そのとき比内から大館にかけての地域を大浦(津軽)為信が支配していたので、佐竹はこの土地を大浦との間で交換することにした。今の秋田―青森県境の通りになったのだ。

このことも僕は知らなかった。

僕の家族は昔から青森県境を越えて深浦辺りまでよくいっていた。海水浴やキャンプなどである。須郷崎とは白神山地の山脈が海へ落ち込む髙地の延長にあって、ここを越えるのは多少難儀である。それにもかかわらず、この五能線沿線は能代から深浦辺りまでどこか親和性を感じる土地柄であった。大間越という集落(青森県)から五能線で通っていた高校の同級生もいた。

 

ところで、秋田の竿灯祭りは有名だが、秋田市民の内、一部だろうが、あれは佐竹が持ち込んだものだからというので、そっぽを向いているものがいるという。

僕は、佐竹氏が移封されて後、秋田でどんな政治を行ったのか、噂すら聞いたことがなかった。木に竹を接いだようなもので、殿様に違いないが、典型的他国者と感じられながら江戸期を過ごしたのではないか?平賀源内が鉱山開発のことを佐竹の殿様に講じるために久保田城を尋ねたというエピソードが記憶にあるだけで、佐竹に関して知っていることは、ほぼない。

秋田の人は、佐竹家由縁の人をのぞけば、多かれ少なかれそんな調子ではないかと想像している。

 

昔、僕の家は、中村筑前守十八代の末裔だといっていた。十八代とは、佐竹氏移封より遥か以前のことになる。安東氏または、同時代の豪族の家臣だったのか。従兄弟が調べてみたら、仕事は右筆だったらしいということだった。

誰に聞いたのか記憶は定かではないが、明治十七年、大館近傍生まれの祖父は次男坊で、長男である十八代目が、明治新政府の呼び掛けに応じたのか、たぶん、祖父の成人前に夷島(渡島半島)の七重浜に移住することになった。偶然かもしれないが、安東氏由縁の土地である。長持ちに、刀や槍や武具がたくさん入っていて、それをごっそり持っていったらしい。次男坊は置き去りにされた。

その祖父が亡くなったとき、七重浜から十九代を継いだらしい中村筑前守憲忠がやってきて、神式から仏式に改宗した叔父の葬式に戸惑っているのを大学生の僕がみていたのを思い出す。

 

「安東氏 下国家四百年ものがたり」を書いた森山嘉蔵氏(昭和二年生まれ)は、深浦で、長年校長先生をやった郷土史家である。

この本は、国史学の研究論文とは違い、直接古文書などの資料にあたってはいるが、自治体のまとめた郷土史などを丹念に読み込んで、安東氏の全貌を浮きぼりにしようとした労作で、僕はこの原稿を書く上で、ほとんどの部分、この本を参照した。

 

その森山氏にしても、なんと、初めは『安藤氏という謎』だったようだ。

本の「あとがき」で安東氏研究の動機について、興味深い記述をしている。

 

「深浦・吾妻沢の六所の森に三基の板碑が建立されている。

小学生の頃から目にしている石碑だが、その古い苔むした石碑に『康永四年乙酉二月二十九日・・・』の紀年号の彫られているということを、『深浦町史』(昭和九年発刊)で知ったのは戦時中であった。この三基は深浦町(旧大戸瀬村)関集落・折曽乃関の板碑四十二基と同じ鎌倉後期から室町期にたてられた板碑で、その頃、津軽一帯を支配していた『安藤氏』一族などの供養塔であることを知ったのは、『西津軽郡史』編纂に参画していた昭和二十七年頃と思っている。

初めて耳にした『安藤氏』であったが、日常的な繁忙の中に忘れ去っていた。もっとも、『西津軽郡史』(昭和二十九年発刊)所載大山梓氏の安藤氏論述は一読したがよく分からなかった。・・・・・・」

 

康永四年といえば、1346年、鎌倉幕府が倒れて、南北朝時代のことである。深浦の在所にこんな古い碑があったとは驚きだが、それが安藤氏一族のものであることを知ったのは戦後十年もたった頃で、この時はじめて「安藤氏」を耳にしたというのである。

 

深浦は十三潟のかなり南にある古い湊だが、南北朝時代はまだ、十三湊安藤氏がここを支配していたであろう。その後、十五世紀半ばには葛西秀清が、この地を含む「河北千町」を支配していたが、1456年、南部氏に追われて蝦夷島に逃れていた安東氏下国家の政季と嫡子忠季が葛西秀清を破って桧山城を築いたときから、再び深浦に安藤氏が現れるのである。

そのことも含めて、安藤氏については知らなかったということなのだろう。

それ以降、この地方にも研究者がボチボチ増えてきて、森山氏もその仲間入りをすることになったが、いまでも、安東氏については確然としないものを感じると述懐している。

調べれば調べるほど謎は深くなるといった趣なのかもしれない。

 

十三湊の富山大学の発掘調査や戦国の世を駆け抜けた記録など、歴史の中に埋もれかかった『安東氏という謎』を掘り起こして、明らかにして行こうという人が増えていると森山さんは感じている。これからますます研究が進んで、安東氏のものがたりは輪郭があざやかになっていくに違いない。

 

そこで最後に提案がある。

僕はもう故郷には戻れない身(人工透析)になってしまったので、だれかに、戦国武将で、信長とも対等に渡り合った『安東愛季』の物語を語って、町おこしをしてもらいたい。簡潔にまとめたユーチューブがあったので、それを添付してこの稿を終わりにしよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

<iframe width="560" height="315" src="https://www.youtube.com/embed/yxVP6pTt_Bg?si=kGe-VsL4rT3Ca-02" title="YouTube video player" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; clipboard-write; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture; web-share" referrerpolicy="strict-origin-when-cross-origin" allowfullscreen></iframe>